南條 竹則
第29回 「陶然亭」後編
 このところ原稿を書くために青木正児の「陶然亭」を読み返していたら、浅草にあった「松風まつかぜ」という居酒屋のことを思い出した。
 趣はいささか異なるが、「松風」もまた清酒を楽しむための店だった。
 びん詰めの酒も置いていたが、店の奥に「真澄ますみ」や「大関」などの酒樽が六つくらい並んでいて、わたしは行くと、まず「真澄」をやで一合飲んだ。
 この店の一合は正一合である。一人三本までという制限があったが、数人連れ立ってゆけば、酒量の少ない仲間の割り当て分を融通できる。
 酒の銘柄によって徳利のがらが違い、紺や茶色や臙脂色の模様の入った徳利が卓上に並ぶのが楽しかった。一本注文するたびに、小皿に入ったつまみが付いて来る。三本取れば三種類のつまみが来る。塩豆五、六粒とか昆布の切れ端とか、味醂干しの小魚が二、三本とか、じつにケチな、ちんまりしたつまみだったが、それでちょうど良かった。
 長っちりする場所ではなく、どこかへ繰り出す前に下地を入れる店だったからだ。繰り出さなくても、清酒は腹のふくれないつまみで飲むのが一番美味い。「陶然亭」の目録を見ても、最後の鍋物は別として、それ以外の酒肴はいずれもつつましやかで、かつ気の利いた小菜である。
 その中の「異国風味」という項目について、あとで述べると前回書いたが、その内容は次の通り。
 松花スンホワ
家鴨あひる卵醗酵製)
一個 ○○銭  
 糟蛋ツアオタン
(家鴨卵糟漬)
一個 ○○銭  
 醤豆腐ヂアンドウフ
(豆腐味噌漬)
一個 ○○銭  
 ハム 一皿 ○○銭  
 ソーセージ 一皿 ○○銭  
 チーズ 一皿 ○○銭  
 初めの三つは、『華国風味』所収の「醢菜譜」という一篇に出て来る。
「醢菜譜」は青木正児が中国で味わった種々の漬物や発酵食品を紹介する文章で、我が国の発酵食品との比較なども面白く、今読んでも役に立つ。
「松花」、すなわち皮蛋ピータンについて、青木正児はこう書いている──
一名「松花蛋」、日本の中華料理店でもよく出す、例の白身が茶褐色でゼリーのようになり、黄身が暗緑色で鮑の角を煮たようになった卵である。(中略)「松花」とは誰がつけたか、真にその名に恥じぬ仙家の珍味である。北京では黄身が全部固まらないで、中心に少しばかり黄色くどろりとしたところの残っている程度のを佳品としている。(『華国風味』岩波文庫172頁)
 第二の「糟蛋」については、こうある──
 糟漬で珍なのは「糟蛋ツアオタン」即ち家鴨の卵の糟漬である。外観はゆで卵のようで何ら異状はないが、一たびこれを箸の先でつつくや、殻はぶよぶよで忽ち破れ、中からねっとりと、、、、、雲丹のように溶けた黄身がはみ出しそうに現れて来る。それを箸の先に引掛けて嘗めると、味もどこやら雲丹に似通って舌に媚び、覚えず舌鼓を打たされる。「(同171-172頁)
 青木正児は下関の人だ。山口県は雲丹の名産地だから、「陶然亭酒肴目録」に雲丹を使ったつまみが多いことも、糟漬の卵の黄身から雲丹を連想することも頷ける。
 糟蛋は皮蛋と違って日本では中々お目にかかれないが、わたしは昔、北京の「四川飯店」で食べたことがある。奈良漬けのような香りがして、白身の部分はかなり塩辛かった。黄身はたしかに美味かった。これを嘗めつつ「五糧液」を飲んでいたら、入って来た西洋人のお客が、異臭がするとばかりに鼻をヒコつかせていたのを思い出す。
 この食品は四川省南部にある宜賓という街の名産だ。わたしはこの街へ一ぺん行ってみたいとかねがね思っているが、果たせない。
 第三の「醤豆腐」を青木正児は相当気に入っていたらしい。
 味噌漬で珍なのは「醤豆腐ヂアンドウフ」即ち豆腐の味噌漬を第一とする。表面は赤褐色で腐燗したようになっているが、中は灰白色で、ちょうど軟製チーズを今少し軟らかにした加減に固まっている。一種の異臭があって、慣れぬ間は気になるが、味は誠に肥美で、口に入れると溶けてしまいそうに、滑らかな舌ざわりが甚だ快適である。あらゆる点から見てこれは植物性蛋白質のチーズといえよう。お粥の菜としてこの上もない妙品とされているが、酒の肴にも結構である。これと同類のものに「糟豆腐ツアオドウフ」即ち豆腐の糟漬かすづけがある。この方は材料の関係上甘口で、醤豆腐のような異臭がなく、酒の香りがして温雅であるが、酒の肴としてはむしろ醤豆腐を取るべきであろう。(『華国風味』171頁)
 糟蛋を「糟漬」というのはわかるが、醤豆腐は味噌漬ではない。別の方法で発酵させた食品である。青木正児が食べたものは外面が赤褐色だったので、そう勘違いしたのだろう。醤豆腐の色は製法によって、外面が灰白色のものや青味を帯びたものもある。赤褐色というと、「南乳」という同種の発酵食品を思い出すが、こちらは中も外も赤いし、舌触りもさほど滑らかではない。
 ちなみに「醤豆腐」は昔風の呼び名で、現在ではたいてい腐乳とか乳腐という。だが、わたしが学生の頃、この珍味を初めて口にした渋谷の「珉珉みんみん」という店では、品書に「醤豆腐、豆腐の漬物」と書いてあった。
 あの店で飲んだ竹葉青酒の味も忘れられない。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)