吉田 篤弘
第一話 塔のある街[其の二]ところで、〈塔ノ下〉という街の名には、この街を知る者であれば、云うまでもない由来がある。
すなわち、ゆるやかに蛇行する目抜き通りを見下ろすように一本の塔が聳え、当然ながら街のどこにいても、この堅牢な石造りの塔が見える。街のシンボルであり、目印であり、街のすべてが〈塔ノ下〉と呼ばれてしかるべきだと納得する。
ただし、この塔がいつ、どのような理由で建てられたかは、その当時から明らかではない。たまさか金銀を掘り当てた成り上がりが、金の使い途に困って、意味もなく建立したというのが一応の通説となっている。意味もなく建てられたので、まさにシンボルでしかなく、驚くべきことに、塔の内部へ通じるエントランスのひとつも見られない。
仮に中へ入れたとしても、たとえば、塔の上へとのぼる螺旋階段や昇降機の類が備えられていない。それもまた、誰かが確かめたのではなく、いつからか、そのような噂が流れて、「そうなのか」と皆、曖昧に頷いていた。
しかし、あるとき誰かが、
「本当に何でもない塔であるなら、いずれ、何にでもなれる塔ということにならないか」
と云い出した。これが人の口から口へと伝わるうち、余計なものが削ぎ落とされて、この塔は人々の思いや願いを集めた〈希望の塔〉である、ということになった。
まだそうなると決まったわけではないのに、あたかもそうなるかのように願いや望みが込められたものを、希望と云う。
除夜は北風が吹く夜の十字路に佇んでいたが、〈希望の塔〉が彼を見下ろしていることに気づかない。肩でひとつ息をし、重たげな足どりで十字路から離れると、蛇の尾のいちばん最後──袋小路となった突き当たりにあかりを灯す一軒の古書店に辿り着いた。屋号を〈六月堂〉と云う。
「今晩は」と店主が迎え入れてくれる。
この歳若い店主の名は、「六月」と書いて「むつき」と読む。言葉少なく、心穏やかで、華奢な体に蓄えられた知識をひけらかすこともない。
除夜が好むであろう本をよく知っていて、
「こんな本がありました」
と一冊のくたびれた古本をそれとなく差し出す。そうした本は、いずれも角が丸みを帯びていて、幾たびもの精読を静かな夜の読者に提供してきたことがうかがい知れた。
その夜もまた、一冊の古本が除夜に手渡されたのだが、ちょうどよく手の中に収まる小型本で、手の中で転がすように検めると、おかしなことに、表題や著者名はおろか、版元の名前すら見当たらない。
どうしたことか──と除夜が訊ねようとすると、
「そういえば、〈希望の塔〉が、もうひとつあることを知っていますか」
と六月に先んじられた。
「もうひとつ?」
「ええ。夕方の終わりに西陽が塔の影をつくり、夜に差しかかるひととき、影が塔そのものに見えて、塔の方が影に見える時間があるのです」
「影が塔に──」
「これはそんな本でして。あるようでないような本。影のような本です。おそらく、この影のもととなる本があったのでしょうが、いまはもうこの世になく、影だけが、ここにこうして残されたわけです」
たしかに、その本は除夜の手の中にありながら、本の向こうが透けて見えるかのように、いかにも儚げだった。
「いただきます」
除夜は影を買う心地でその本を手に入れ、胸につかえていた角丸とマダムの言葉を、(これでいっとき、忘れられる)と時計屋の二階へ足早に戻った。
✻
その本は影のようでありながらも、間違いなく自分の手の中にあり、頁に刻印された文字は、指先で触れると活版の凹凸が生々しい。六月はあんなことを云っていたが、これは決して影などではない。いたずらに溜飲を下げるためのものでもないだろう。
読み始めた途端、本の中へぐいと引き込まれ、除夜はあたかも自分が影になってしまったような、奇妙な思いに駆られていた。
否──。
自分が二人になり、一人は本の中に引き込まれ、一人は本の外にいて、活字の凹凸を確かめながら、「物語」の行方を追っている。
それはまさに、「物語」と呼ばれるのがふさわしい内容だった。
ただし、この小さな本は、どうやら途中から始まっているようで、あるいは上下巻の下巻のみであるのか、すでに物語は紆余曲折を経て、主人公と思われる女が何者かに追われている。
否──。
この女、その名をミサキと云い、どうやら二十歳になったばかりで、除夜から見ればひとまわりも若い。どのような事情によるものか不明ではあるが、このミサキなるお嬢さんが、追われる身となるような悪事を働いているとは思えない。
しかしながら、活版文字の凹凸を指先でひと文字ひと文字辿るように読み進むと、文章の端々に、「泥棒」や「短刀」といった物騒な言葉が紛れ込んできた。もっとも、前者はよく読んでみれば、「給料泥棒」のことを云っているようで、となると、このお嬢さんが、そうした不名誉な濡れ衣を着せられ、謂れのない逃走を強いられている可能性もある。
除夜は読みふけっていた本から顔を上げ、寝台と文机があるばかりの自らの部屋を見渡した。
机の上は雑多なあれこれによって占拠され、階下の仰太郎から借り受けた時計修理用のルーペや、いつぞやの事件で参考となった臘石がひとつ転がっていた。照明を落とした部屋の中で、そこだけ白く薄ぼんやりと光を集めている。
そこからさらに除夜が手の中の本に夢中になったのは、主人公の彼女が「眼帯を装備している」と書かれていたからだった。
こうした場合の眼帯は、十中八九、目の疾患によるものだろうと高を括っていたが、さにあらず、眼帯の理由は、彼女が野球観戦をしていたとき、打ち上げられたフライが突然の北風によって観客席に流れ、不運にも彼女の眼を直撃したことによるものだった。
直撃を食らった眼は、一旦、すべての光を失ったが、名医の執刀によってふたたび光を取り戻したものの、その虹彩が青色に変異していたと云う。
除夜はそのくだりを読んで、思わず、自らの眼帯に手をあてた。
ただ、彼女の碧眼は除夜とは逆の右の眼で、眼帯の色はと云えば、若草色であると云う。とはいえ、思いがけない境遇に共感を覚え、さらに読み進むと、いよいよ彼女が何者かに追われて、しきりに後ろを振り返りながら走り出す場面となった。
いま一度、「短刀」という言葉がその刃を光らせるように行文にあらわれ、除夜は急いで頁をめくりながら、彼女が逃げ込んだ街の描写に息を吞んだ。
最初のうちは気づかなかったのである──。
しかし、そこは都会のはずれの小さな街で、その中心にはゆるやかに蛇行する目抜き通りがある。通りを見下ろすように、堅牢な石造りの塔が建っていて、街の人々はそのシンボルを〈希望の塔〉と呼んでいる──とある。
除夜は寝台の上で体を丸めて読みふけっていたのだが、そのくだりを読むなり上体を起こして、さらに読み進めると、
「ミサキは走った。蛇の如き目抜き通りを徐々に狭まっていく蛇の尾に向かって逃走した。
短刀が月明かりにきらめいたが、無情にも月は暗雲に隠れゆき──」
除夜は部屋の窓から空を見た。まさに手の中の本に描かれている通りの夜空が広がり、黒々とした暗雲がやけに神々しい月を吞み込もうとしている。
「ミサキは蛇行する道から逸れて、どこかへ逃げ込むべきだと考えた。しかし、どの路地へ逃げ込んでよいか判らない。」
除夜は寝台から起き上がり、素早く外套を羽織ると、文机の上の臘石をポケットに放り込んで階下におりた。
「どうしました──」
と声をかけてきた仰太郎には目もくれず、外套の裾をひるがえして通りへ出ると、そのまま北へ向かって走り出した。
「誰かが殺される前に、その殺人事件の謎を解くこと──」
胸の奥で言葉が走り抜けていく。
郵便局と代書屋の間、路地と云うより隘路と云うべき、その辺りで最も暗い小路を横目に、除夜は路上にしゃがみ込んで、ポケットから臘石を取り出した。その隘路に向けた矢印をひとつ、アスファルトに殴り書く。
すぐさま小路の暗がりに身を潜め、耳を澄まして通りをうかがっていると、はたして、こちらへ向かって走り来る足音が聞こえてきた。
次第に近づいてきて、やがて、はたと音が止むと、路上の矢印に気づいたのか、荒い息遣いが隘路に響いて、除夜の眼前まで迫ってきた。
見上げると、建物と建物に挟まれた細長い夜空に、雲が流れたのか、ふたたび月が覗いている。
ふたつの眼帯とふたつの眼が暗がりの中で向き合っていた。
(「第二話」へつづく)
┃著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。