吉田 篤弘
第二話 宝石泥棒と遮光眼鏡[其の一]
 なんらかの理由によって、強制的に自由を奪われた状態を、囚われの身と云い、そうした境遇から自ら脱け出して、追われる身に転じた者を逃亡者と云う。
「それはまた大変なことでした」
 と、さして事情を聞かされていないのに、勝手に状況を把握してしまうことを早合点と云い、
「しばらく、身を隠された方がいいでしょう」
 と相手がそれを望んだわけでもないのに、いささか強引に手を差し伸べることを、お節介と云う。
「ちょうどいい部屋がありますので」
 事情を聞いた雲行くもゆき仰太郎が除夜じょや一郎に目配せをすると、
「もしかして、菜緒さんの部屋ですか」
 と除夜は少なからず驚いた。
「あのアパートなら人目につきませんし、家財道具もそのままにしてありますから」
 仰太郎がそうしたお節介を発動させるのは、きわめて稀で、稀であるがゆえに、除夜には仰太郎の胸の内がただちに察せられた。
 それは、路地の暗がりへ導いた女──あの本によれば、彼女の名はミサキといった──を時計屋に連れかえり、ことの次第を了解した仰太郎が彼女の姿を認めた瞬間から始まっていた。
 除夜は仰太郎の表情についぞ見たことのないものを読み、娘を亡くしてからすっかり見られなくなっていたに違いない、父親としての威厳と慈愛を瞬時に取り戻したことに目を見張った。
 一方、彼女が──ミサキが仰太郎の申し出を受け入れたのは、ふたつの理由によるものだった。
 ひとつは、自分をあの追手から救出してくれたばかりでなく、除夜と名乗るその男が自分と同じように眼帯で片方の目を覆っていたこと。
 そしていまひとつは、仰太郎の自分へのまなざしが、押しつけがましくない、ちょうど良い距離感を保った慈愛に充ちていたことだった。
 はなはだ不本意ながら、追われる身となったミサキにしてみれば、またとない援軍ではあったが、その一方で、もはや誰も信じられないという疑心暗鬼を払拭することもできなかった。
 除夜はと云えば、自分の俊敏な行動によって彼女を保護することができたのに、手柄を仰太郎に奪われたような気がして大いに鼻白はなじろんだ。
 とはいっても、さすがに仰太郎は大家としての矜持がある。
 当面の食う寝るところを、気前よく「提供します」と約束すると、手柄を横取りするなどもってのほかとばかりに、
「あとのことはお任せします」
 とアパートの部屋の鍵を除夜の手に握らせた。
 仰太郎に大家としての顔があるというのは、時計屋の二階を除夜に提供しているからにほかならず、まさか、娘が暮らしていた文化アパートもどきの二棟を所有しているわけではない。
 ただ、そのアパートの家主が仰太郎の古馴染みで、娘が亡くなったあとも、そのまま部屋を借りていることに苦言を呈することもなかった。
 街の人々のあいだでは、必要のない家賃を払いつづける仰太郎に対して、「粋狂」と陰口が囁かれたが、その粋狂がこうして役に立つ日が来ることになろうとは、いかに名探偵の除夜であっても、思いもよらなかった。
 まともな者であれば、決してそうしないであろうことに、自ら好んで臨むことを粋狂と云う。
 時計屋からアパートまでは除夜の足で五分とかからない。
 目抜き通りに背を向け、いくつもの十字路が網の目となった迷路の如き路地を行くと、そこだけ木立に囲まれた一画に突き当たる。木立によって鬱蒼うっそうとした印象があるが、風に揺れる枝葉のあいだから覗き見える瀟洒しょうしゃな建物は、堅牢でありながらも、ところどころに、やわらかい曲線を持った意匠が施されていた。
 エントランスには、〈十一番アパート〉と素っ気ない名を彫り込んだ銅板が掲げられ、同様のアパートメントが、いつからかこの都に点在し、その十一番目に当たることを端的に示していた。
 除夜は菜緒が住んでいた部屋を訪れる機会がこれまでに何度かあったが、残念ながら、生前の菜緒と言葉を交わしたことはない。時計屋の奥の間に鎮座する仏壇の写真に馴染んではいたものの、生身の菜緒を目にしたことはなかった。
 だから、ミサキをアパートの部屋に招き入れたとき、ホテルのように整然と整えられた部屋に菜緒が帰ってきたかのような幻想を抱いた。
 カーテンをひらくと、二階建ての二棟と双方をつなぐ廊下に囲まれた中庭が見え、いくつかの部屋から漏れ出た室内灯に照らされて、庭に配された色とりどりの植物が精緻なタペストリーの如く映えていた。
 部屋の隅に置かれた寝台の端にミサキは腰掛け、
「いい庭ですよ」
 と除夜に声をかけられても、
「そうですか」
 と消え入りそうな小声で答えるばかり。
 しばらくのあいだ、沈黙が部屋を支配していた。
 除夜としては、さっそくいてみたいことがあったのだが、疲弊をあらわにしている彼女に、
「何があったのですか?」
「誰かに追われていたのですか?」
「それは誰でしょうか?」
 などと問い詰めるのは酷なことと思われた。
(さて──)
 と思案しているところへ、意表をついて部屋のドアをノックする者があり、「はい」と応じると、
「雲行様のご依頼で、お食事をお持ちしました」
 とドアの向こうで声が上がった。
 仰太郎がどのような手筈によって、こんな時間に食事を用意できたのか分からない。あるいは、娘が暮らしていた時分にも、こうした差し入れがなされていたのだろうか──。
 除夜は自分の知らない過ぎ去った時間を取り戻す心地になった。
 用意されたのは、ふた切れのパンと、いかにも間に合わせにつくられた野菜スープだったが、添えられたポットからは紅茶のかぐわしい香りが漂い、トレイに並べられた銀食器は、普段、除夜が口にしている三流食堂の配膳とは一線を画していた。
 一体、仰太郎がどれほどのツテを有しているのか見当もつかなかったが、一介の時計屋に過ぎないはずなのに、ときどきこうして、除夜には計り知れない振る舞いに接することがある。
「どうぞ、召し上がってください」
 除夜が寝台の上にトレイを置くと、よほど空腹であったのか、ミサキは間髪をいれずにトレイを膝にのせた。
「ありがたくいただきます」
 それまでの静けさを裏切るように勢いよくパンを口に運んだ。
 疲れきったミサキがパンとスープを平らげて気絶するように眠ってしまうと、除夜は時計屋の二階に戻って、もどかしいような、変に肝が据わったような、なんとも覚束おぼつかない一夜を過ごした。
 夜が過ぎ去って、すべてが陽の光にさらされると、昨夜の事件はページをめくりつづけた本の中の出来事であったようにも思える。
 くだんの本は文机の上に何ごともなかったかのように置かれていた。
 除夜は外套を羽織ると本をポケットにおさめ、若草色の眼帯をつけて眠っているミサキを思い浮かべたが、まずは事の起こりを確かめるために、古書店の六月むつきを訪ねる必要があった。
「読まれたんですね」
 と六月は笑みに近いものを口の端に浮かべたが、
「途中まで」
 と除夜が答えると、
「なぜです?」
 と六月にしては、めずらしく食いさがった。
「なぜって──僕の穏やかではない直感が働いたからです」
「それはつまり、探偵としての?」
「ええ、このままだと、あのミサキさんというお嬢さんは、短刀を携えた追手に命を奪われるかもしれないと」
 除夜は唇を嚙んだ。
「それでは駄目なのです。僕は自身に誓いました。もう誰ひとり、死なせないと。誰かが殺されたあとに、どれほど優れた推理を働かせても、命がよみがえるわけではありません。それでは駄目なのです」
「そうですか──」
「それが、たとえ本の中の出来事であったとしてもです。僕が好奇心に駆られて先を読んでしまったら、本の中とはいえ、彼女は命を落とすことになる。だから、それ以上、読み進めるのをやめて、彼女を救いました」
「そうですか──」
 六月は同じ返答を繰り返した。
「この物語が」と除夜はポケットから本を取り出し、「あの先、どのような展開になるのか知りませんが、僕はすでに彼女を救いました。問題は──」
 除夜はいまいちど唇を嚙んだ。
「問題は、彼女がなぜ追われる身になったかです。この本は途中から始まっている。おそらく上下巻に分かれた下巻なのでしょう。違いますか」
「そうですね」と六月も唇を嚙んだ。「おそらく、そうだと思います」
「では、古本屋として責任を取ってください」
「責任ですか」
「なんとしても、上巻を探し出してほしい。そこには、彼女の来歴が書かれているはずです。僕はどうしてもそれを読みたい。いや、読まなくてはならないんです。彼女がどんな人生を歩んできたのか、どこで何をしていて、何が起きて逃亡者となったのか──」
「分かりました」
 六月は除夜の気迫に押されてうなずいたが、元より得体の知れないこの本に、上巻があるかどうかは判然としなかった。

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。