吉田 篤弘
第二話 宝石泥棒と遮光眼鏡[其の二]ほとぼりがさめるまでは寝かしておこうと思い決めていたが、アパートの部屋を訪ねてミサキの様子をうかがうと、彼女の快復力は除夜の思惑をはるかに凌駕したものだった。
周囲の人々が気にかけたり、気を揉んだりしているのに、当の本人はいたって平然と涼しい顔をしているさまを、どこ吹く風と云う。
除夜の顔を見るなり、
「お腹がすきました」
と物怖じもせず、
「外の空気が吸いたいです」
とそつなく付け加えて、食事に連れ出してくれと云わんばかりである。
おかしなもので、彼女のそうした屈託のなさが、除夜の心持ちを愉快に解放したと云っても過言ではない。
「いいでしょう」
と肩をすくめながらも快く請け合い、
「僕の行きつけの店でよければ」
と目抜き通りの十字路に案内した。
その十字路の角に〈エデン〉と看板を掲げたコーヒーと軽食の店があり、除夜はその店の常連であったので、妙齢の女性と連れ立って入店すれば、否が応でも人目を集めることになる。しかも、二人して眼帯をつけているのだから、なおのことだ。
しばし、店の前で立ちどまり、せめて眼帯はどうにかしたいと思案していると、
「わたし、いいもの見つけたんです」
とミサキが女ものの洒落た遮光眼鏡をどこからか取り出してみせた。
「あのお部屋に住んでいらした方のものでしょうか」
窓辺に置かれた机の抽斗の中に見つけたという。となれば、菜緒の遺品ということになるが、仰太郎の許可をとる間もなく、ミサキは手早く眼帯を遮光眼鏡に取り替えて、それがまた誂えたようによく似合っていた。
窓ぎわの席についた二人は傍目にどう映ったであろう。
ミサキはミルクコーヒーとミックスサンドを注文し、除夜は特別に苦くした伊太利亜コーヒーを飲みながら、通りを挟んだ向かいに構えた宝石店をそれとなく眺めた。
宝石店の店内にはミサキと同じ歳格好の女性客がいて、店の者に申し出て、いくつかの指輪を見せてもらっているようだった。
ただ、どうしてなのか、いちいちあたりを見まわして落ち着きがない。店は防犯につとめて三方がガラス張りに設計されており、あるいは、「誰かに見られているのでは」と気もそぞろになっているのかもしれない。
本当は窓の向こうのそんな光景に気をとられている場合ではなく、差し向かいになったミサキと昨夜の一件について話すべきであると除夜は承知していた。しかし、どういうものか、宝石店から目を離すことができず、その様子に気づいたミサキも遮光眼鏡をはずしたりつけたりしながら、一緒になって宝石店を見物し始めた。
「どうしたのかしら、あの娘」
と指輪をあらためている彼女の挙動不審を指摘し、
「何か変ではないですか」
と除夜に同意をもとめた。
「そうですね」
と除夜が同意したところへ、店内に新たな客が現れ、いささか宝石店には不釣り合いと云うしかない、くたびれた上着を着た中年男だった。
ミサキは食べかけたサンドイッチを皿に戻し、
「もしかして──」
と言葉尻を濁して息を吞んだ。
「あの娘、もしかして──」
「宝石泥棒」と除夜が後を継いだ。「に見えますか?」
泥棒という言葉にミサキは一瞬、身を強張らせたが、
「もしかして、あの男は──」
とまた語尾を濁らせる。
「もしかして、刑事に見えますか?」
除夜はそう云いながらも、宝石店から視線を逸らさなかった。
「違いますか」と声を震わせるミサキに、
「さて、どうでしょう」と眉をひそめる。
「だって、どうしてあの娘は、あんなにおどおどしているのです?」
ミサキの問いに、
「こう考えてみてはどうでしょう──」
除夜はお得意の仮説を披露した。
「彼女には婚約者がいるのです。それで、昨晩、彼氏から『どんな結婚指輪がいいか』と訊ねられたんです」
「待ってください、それはあくまで仮定の話なんですよね」
「ええ、そうです」
「それで?」
「彼女は咄嗟に、『どんな指輪でもいいわ』と答えたのですが、なにしろ初めてのことですし、はたしてエンゲージ・リングの値段がどのくらいなのか、相場を知らないと気づいたんです。にもかかわらず、どんな指輪でもいい、と答えてしまった。彼女としては、彼に負担をかけたくなくて、『どんな指輪でも』と伝えたのですが、もしかすると、逆に負担をかけることになるかもしれません。それで、人目を忍んで調査に来たわけです」
「なるほど」とミサキは胸元で小さく拍手をした。「きっと、そうですよ。そうかもしれないと思ったら、そのようにしか見えません」
「だといいんですが──」
と除夜が口にした途端、店の中に動きがあり、彼女が指輪の調べを終えて、そそくさと店から出てきた。
すると、やはり同じようにカウンターで指輪を見せてもらっていた男も店員とのやり取りを終え、あたかも彼女を追うように店を出て行こうとしたところを店員に呼びとめられた。何事か言葉が交わされた挙句、店員に腕をつかまれている。
「えっ?」とミサキは声を上げたが、除夜は外套のポケットにねじ込んであった鹿革の手袋を取り出して速やかに両の手にはめた。席を立ち、ミサキを置いて足早に店を出て行くのを、ミサキもあわてて後を追う。
走り出して通りを渡り、宝石店の扉を押すと、中から男の怒号が、「ふざけるな」と響いた。
「俺は何もとっちゃいないぞ。体中、調べてみたらいい」
と息巻いている。その声を聞くなり除夜は身をひるがえし、
「どういうこと?」
と戸惑うミサキを従えて、十字路を見渡した。
「彼女はどちらへ行ったろうか」
そうつぶやくと、ミサキが、「あちらです」と西へ向かう道を指差して、「どういうこと?」と繰り返した。
「やはり、彼女は宝石泥棒なんですか」
除夜はその問いに答える間もなく西へ向かう道を行き、やがて視界の隅に彼女の背中を見つけると、駆け寄りながら、「お嬢さん」と声をかけた。
振り向いた彼女は除夜の勢いにひるんだが、
「失礼ですが」
と丁重な物腰になった除夜に、「なんでしょう」と首をかしげる。
「失礼ですが、お嬢さんのコートのポケットにですね──」
除夜は淡いグレーに彩られた品の良い毛皮のコートにそっと触れ、
「指輪が入っていませんでしょうか」
と彼女の左のポケットの中に手袋をはめた右手を差し入れた。
彼女は驚愕し、思わず悲鳴を上げそうになったが、除夜の指先が値札がついたままの指輪をポケットから取り出すと、
「わたし、知りません」
と首を振って、目の前で起きていることをしきりに否定した。
「ええ、分かっています」と除夜は頷き、
「どういうこと?」と繰り返すミサキに、
「彼女は本当に何も知らないはずです」と穏やかに応えた。
と同時に、十字路を振り返り、ちょうど宝石店から出てきてこちらへ近づいて来た男を見出すと、手にしていた指輪を振りかざして、男に見せつけるように示した。
すると、男は一瞬にして凍りついた表情になって立ちすくみ、「ちっ」と舌打ちをするなり、踵を返して立ち去ってしまった。
「わたし、本当に──」と首を振る彼女に、
「あの男は有名な奇術師でした」
と除夜はなだめるように優しく説いた。
「ですが、いつからか身を持ち崩してスリ師に成り下がったんです。とはいえ、指先の器用さは追随を許しません。ですから、あの男はいとも簡単に、これと見定めた指輪をあなたのポケットに差し入れた。目にもとまらぬ速さで。店を出て行こうとするあなたの左のポケットにです」
「わたし──本当にまったく気づきませんでした」
「ええ。そしておそらく、あの男はあなたの後を追い、あなたがまったく気づかないうちに、そのポケットから指輪を取り出して、自分のポケットにしまいこんだでしょう」
✻
指輪を宝石店に戻して、ひとまず一件落着すると、除夜はミサキを誘って〈エデン〉の窓ぎわに戻った。「さぁ、コーヒーを飲みなおしましょうか」
とその声はいかにも快活で明るい。
「なぜ、男を捕まえなかったんです?」
ミサキが不審げに遮光眼鏡をかけ直すと、
「あわてる事はありません」
除夜は窓の外の十字路を眺めた。
「宝石店は警察に申し出ると云っていました。あの指輪には、あの男の指紋だけが残されているでしょう。おそらくは、名だたるスリ師でしょうから、指紋から洗い出して足がつくはずです」
除夜はしかし、そこで声の調子を落とした。
「もっとも、すべては僕の早合点かもしれず、となれば、あの男ではなく、彼女の指紋が検出されるかもしれません」
そう云って、遮光眼鏡に隠されたミサキの目を覗き込むようにじっと見つめた。
「あるいはです──」
とさらに声を落とす。
「あるいは、あの男は、あのくたびれた上着の隠しポケットに短刀を忍ばせていたかもしれません。そしてもし、男がスリ師ではなく単なる乱暴狼藉者であったとしたら、その短刀で彼女を殺め、力ずくで指輪を奪い取っていたかもしれない」
除夜はそう云って、十字路の向こうに聳える〈希望の塔〉を見上げた。
ミサキは遮光眼鏡の奥から除夜の横顔を見つめている。
眩しさをもたらす紫外線および青色の光を遮断し、光の強さを調整して和らげるものを遮光眼鏡と云う。
(「第三話」へつづく)
┃著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。