吉田 篤弘
第四話 つくりごと[其の一]
 まったくの別人であるのに、いかにも「その人」であるかのように決めつけたり決めつけられたりしてしまうことを、人違いと云う。
 思わず血迷ってしまったり、魔が差してしまったりしたときに、自らを律して態度をあらためる様を、襟を正すと云う。
 事実ではないどころか、現実ですらないのに、あたかも実在するかのように図られたものを、つくりごとと云う。
「あなたは──」
 と古本屋の六月が除夜の背中に声をかけた。
「いつまで、あのミサキさんというひとをかくまうおつもりですか」
 除夜としては気晴らしに古本屋の棚を物色しに来ているのだが、うっかり六月にミサキの話を明かしてしまったのが運の尽きであったか。普段は泰然としている六月が、除夜と目を合わせるたび、「あのミサキさんというひと」と口うるさかった。
「そのうち退屈して、向こうから離れていくでしょう」
 除夜は軽くいなしたつもりだったが、
「たまには、芝居見物にでも行かれてはどうですか」
 六月はひるまなかった。
「切符があるんですよ。商店街の福引で二等を引き当てましてね」
 番台の上へ切符を二枚並べ、
「こいつが賞品だったんです。明後日の夕方の公演なんですが、僕は店がありますし、そもそも一緒に出かける相手が思いつきません」
 あまりにしつこく推してくるので、仕方なしに除夜は切符を受け取り、受け取ったその足でミサキの部屋におとなった。
「もちろん、ご一緒したいです」
 ミサキの声が一気に華やぎ、
(ふうむ、そんなものか)
 除夜はミサキの屈託のない様子に驚き、喜んだミサキを眺めるうち、自らの胸中まで晴れ晴れとしてくるのにまた驚いた。
 相手が喜ぶさまに自分の喜びを見出すことを愛と云う──のではなかったか。
(いや、この愛は色恋のそれではなく、いわゆる博愛のそれであろう)
 除夜は顔を強張こわばらせて身を固くし、文字どおり襟を正しながらも、嬉々としているミサキに見とれていた。
「ほう。芝居見物とはまためずらしいですな」
 仰太郎に冷やかされ、どことなく地に足のつかぬ心地で、ミサキと連れ立って芝居小屋へ赴いた。
〈希望の塔〉を間近に仰ぎ見る〈レインボウ・パーク〉の一角である。パークには芝居のみならず映画や演芸の小屋もあり、遊園地や動物園までもが設けられて客を集めている。一年三百六十五日、休みなく賑わい、賑わいに乗じて飲食店が軒を連ねていた。日々が祭りであるかの如く屋台がひしめき、カルメ焼き、金平糖、飴細工といった看板の彩りも目に愉しい。
(こんな心持ちになるのはいつ以来か)
 除夜は胸がざわつくのを禁じ得なかった。
 これはまたミサキにしても同じで、娯楽と呼ばれているものの尊さとありがたみを身に染みて味わっていた。
 芝居の演目は「アスファルトの怪人」と云い、古典的なスリラーを当世風に料理した悲喜劇だった。舞台装置を最小限にとどめたのが眼目で、その分、役者たちの技量が否応なく際立った。
 とりわけ、主人公の少女と怪人が格闘する場面では、あまりの迫真ぶりに客席のあちらこちらで悲鳴が上がり、ミサキもたびたび「はっ」と声を上げて、白く細い指先で紅を差した唇を覆った。最後に少女が短刀をひらめかせて怪人の心臓をひと突きすると、芝居とは思えぬほど血潮がほとばしり、巧みなスポットライトによって、無数のルビーが飛び散ったような一瞬を見せた。
(誰ひとり殺させない)
 そう胸に誓った除夜としては、これは芝居なのだと承知しているのに、思わず席を立って、少女がかざした短刀を奪い取りたい衝動に駆られた。
「まるで、つくりごとではないようでした」
 ミサキは小屋を出ると、辺りがすっかり夜になっていたのに目を見張り、眼前に広がる〈レインボウ・パーク〉のパノラマもまた芝居の背景であるかのような錯覚にとらわれた。
「もし──」
 と除夜がため息を漏らす。
「もし、あの舞台上で本物の殺人が行われたら、何が本当で、何がつくりごとなのか見分けがつかなかったでしょう」
「ええ。そう考えると恐ろしいですね」
 一陣の風にミサキがコートを羽織りなおしたとき、視界の端に、人と人とが怒号を上げながらもつれ合っているのが映った。それはまさに舞台の延長のようで、ともすれば、件の役者たちがアンコールに応えて熱演を繰り返しているのかとも思えた。
 だが、そうではない。
 もつれ合っているのは三人の男で、遠まきに格闘の推移を見守っていると、どうやら三つ巴ではなく、二人組が一人へ向けて暴力をふるっている。つまりは、二人の暴漢が一人の男を襲っていた。
「許さんぞ、ぬま
「思い知れ、氷沼」
 暴漢はうずくまった男に憎しみを込めてその名を連呼していた。
「違う、私は氷沼じゃない」
 体を丸めて防御する男はしきりに首を振って否定している。
 除夜はただちに状況を把握し、「人違いです」と叫ぶ男の前に立ちはだかると、月明かりを宿した独眼で二人の暴漢をにらみつけた。
 世に知られている除夜は、「明晰めいせきな頭脳の持ち主」とそればかりが喧伝けんでんされているが、決して少なくない年月を探偵として活躍してきたのだから、こうした場面の立ち振る舞いは、あるいは、舞台上の役者を凌駕りょうがするかもしれない。これまでに数々の悪党を倒してきた気迫がみなぎり、その精悍せいかんな身構えにミサキは瞠目どうもくして引き込まれた。
 気迫とは、対峙した物事を、肉体ではなく精神によって圧倒する様を云う。
 二人の輩は除夜の気迫に肩で息をしながら後ずさり、乱闘を取り巻く人の輪が広がると、
「次は必ず殺ってやるからな」
「覚えていやがれ」
 これまた舞台でよく耳にする捨て台詞を吐いて一散いっさんに走り去った。
「大丈夫ですか」
 除夜はうずくまった男の顔をあらためたが、したたかに殴られた左の頰に赤みが兆しており、力なく頷きながら、
「私は氷沼ではないのです。どうか信じてください」
 と除夜の独眼に懇願した。そこへ、
「おい、杉田」
 取り囲んだ群衆の中に、たまたま男の知り合いがいたらしい。
「お前、またやられたのか」
 うずくまった男──杉田に肩を貸して立ち上がらせた。
「助かりました」と除夜に一礼し、「顔が瓜ふたつなので、もう何度も間違えられて──」
 声を落とすと、重たげな足取りで杉田を抱えて連れ去った。
「おや、めずらしい」
 十字路の角にひっそりと佇んでいる酒場──〈パンドラ〉のマダムもまた、除夜を迎えるなり冷やかしの言葉を放った。
「探偵さんがレディを連れていらっしゃるなんて」
「そうなんですか」
 明るい声で応じたミサキは、早速、マダムのお眼鏡にかなったらしい。
「そうね──はじめてじゃないかしら」
 マダムはグラスに赤い酒を注ぎ、カウンター越しにミサキに目配せをした。
「この探偵さんは、なかなか心を開きませんからね」
「そうなんですか」
 ミサキは同じセリフをひそひそ声で繰り返す。
「そんなことはありませんよ」
 除夜は片方の眉を釣り上げた。
「少なくとも、ここでこうして酒を飲んでいるときは──」
「でも、何か云いたげじゃありません?」
 除夜はマダムの指摘に咳払いをし、グラスの酒をあおると、
「じつはですね」
 と切り出した。
「ほらね」
 マダムも片方の眉を釣り上げる。
「というか」と除夜は首を振った。「ここへ来たときは、事件のことを忘れたいんですよ。でも、そう簡単に忘れられません。その、どうにも煮えきらない態度が心を閉ざしているように見えるんでしょう」
「それで?」とマダムはき立てた。「早くおっしゃいなさいよ」
「ええ」
 除夜は逡巡しゅんじゅんする思いに見切りをつけ、
「氷沼という男をご存じでしょうか」
 と空になったグラスをカウンターに置いた。
「氷沼、氷沼」とマダムはその名を口の中で転がし、「もしかして、金貸しの氷沼かしら」とすぐに思い当たったようだった。
「金貸しの」と今度は除夜が頭の中の紳士録をめくり、「ああ、あの氷沼なのか」と点と点がつながって得心した。
 氷沼太一は、〈塔ノ下〉町の顔役であった氷沼大二郎の一人息子で、親の遺産を元手に金貸しになったが、そのやり口のあまりの汚さに、その筋で悪名を馳せていた。憎しみを買って命を狙われても何ら不思議ではない。点と点がつながったというのはそのような意味に於いてで、除夜の脳裏によみがえった氷沼の容貌が、暴漢に襲われた杉田とじつによく似ていたのも得心だった。
「殺されるかもしれないんです」
 除夜を出し抜いてミサキが口走ると、
「それはそうでしょう」
 マダムは苦い顔で肩をすくめた。
「あの男から金を借りてしまった人は、皆、あいつを殺したいんじゃないかしら。私が聞いた話では、借用書の金額を勝手に書き換えて、何倍もの利子を要求したとか──」
「そうなんですか」とミサキは三たび繰り返した。
「え? ということは、もしかして探偵さん──」
 マダムは口をゆがめて除夜に顔を寄せた。
「まさか、よりにもよって、氷沼の命を守ろうっていうんですか。金輪際、一人も殺させないと誓ったから? 私に云わせれば、あんな奴は──」
「いえ、僕が守るべきは、氷沼によく似た杉田という男です。人違いで命を奪われるなんて、決してあってはなりません。ただ──」
「ただ?」
「ただ、どんなに悪い奴であっても、殺されて然るべきということはありません。つまり──」
「ふたつの命を同時に守るんですね」
 ミサキの言葉に導かれ、
「そういうことです」
 除夜は観念したように目を閉じた。

Collage Illustration──Atsuhiro Yoshida

著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。