吉田 篤弘
第五話 ひと目惚れ[其の一]人を愛する気持ちが著しく募り、その人を独占するべく、精神的な軟禁を強いることを束縛と云う。
そのような束縛に息苦しさを覚え、つい他の人に目移りして、くらくら、ふらふらとなる様を浮気心と云う。
そうした浮気心から噓をついたり裏切ったりしているのを感知し、すでに浮気相手に気持ちが移ろっているのを確認することで、云いようのない焦燥感に苛まれることを嫉妬と云う。
そして、この嫉妬なるものが尋常ならざる高みに達し、「絶対に許せない」「もう二度と顔を見たくない」「いや、存在していること自体が我慢できない」「最早、この世から消えていただきたい」「いや、消してしまいたい」と物騒な衝動に駆られることを殺意と云う。
✻
所は、〈塔ノ下〉町を貫く目抜き通りの尻尾に位置するバー〈パンドラ〉である。時は木曜日の午後十一時──。
さて、どうしたわけか、一週間のうち、この曜日のこの時間帯になると、引き潮に見舞われたように〈パンドラ〉から客足が遠のく。しかしながら、かろうじてカウンターには女性客が一人。マダムと面と向かい、いい加減、酔いがまわってきたのか、
「シンイチさん」
と呼んでいた亭主の名前から、「さん」が消えて「シンイチ」となった。それだけならまだしも、そのうち、名前すら呼ばなくなって、ついには「あいつ」などと云い出す始末。
マダムは内心、困惑していたが、この女性、木曜日の閑古鳥を埋めあわせてくれるありがたいお客様で、〈パンドラ〉の客となって数年が経つ。ご主人への想いを並べ立てるのは、度合いは様々なれど変わりなく、それにしても、この頃は言葉に険があって、いささか物々しくなってきた。
いわく──、
「あの人は、もう」「生きている価値がないんですよ」「だから、いっそ、わたしが殺してやろうと思っているんです」
女性の名は相馬由比子。
マダムは「ユイコさん」と呼んでいる。
「ねぇ、ユイコさん、それはちょっと云い過ぎじゃない?」
「いいんですよ。わたしたち、もうこれまでなんですから」
「これまでって──何かあったのかしら?」
「あったんですよ。ですから、もう終わりなんです」
「終わり?」
亭主への不服はたびたび聞かされていたが、そうは云っても、根っこにはゆるぎない愛情があった。「あいつ」と呼び名が乱れても、気づくと、いつのまにか「シンイチさん」に戻っている。
「シンイチさんは優しいから」
そう云って、彼女は頰の傷あとをひと撫でした。
「彼はね、わたしのこの古傷さえ愛してくれるんです。そんなひと、世界中探しても、他にいません」
ユイコさんの美貌は、数多の女性をカウンターの中から眺めてきたマダムの目にも別格として映った。年齢はおそらく四十を過ぎたあたりか。肌の色艶も若々しく、薄化粧なのに、いついかなるときも麗しい。それゆえ、左の頰に刻まれた傷のあとがひときわ目立っていた。
「スケートをしていて、転んだんです。子供の頃の話です。友達と鉢合わせをして、二人して転んで、彼女のスケート靴がちょうどここに──」
ユイコさんの説明を聞いて、マダムも思わず頰を撫でた。
「シンイチさんはね、この傷も由比子が由比子である証しだって云ってくれたんです」
たとえ、「あいつ」呼ばわりしていても、最後には、そんなおのろけを聞かされるのがオチだった。
ところが、いつからか、「あいつ」のまま終始するようになり、おのろけは消えて、その挙句、「殺したい」とまで云い出した──。
✻
除夜はマダムから話を聞かされても、やんわりと笑みを浮かべるのみで、「そうですか」
と、どこ吹く風だった。
「ねぇ、ちょっと、除夜さん──」
マダムは目尻を釣り上げた。
「笑いごとじゃないのよ。夫婦喧嘩は犬も食わないとか、そういう話じゃないの。わたしは、ここでこうしていろんなお客さんを見てきたから分かるんです。これは危ないぞって。本当よ。女の勘。同じ女としてね。分かるのよ」
「殺してしまいたい、っていう気持ちがですか?」
除夜は笑っていた。
「そうじゃないの」
マダムは眉をひそめた。
「そのシンイチさんというご主人ね、わたしは会ったことがないけれど、その彼の存在がね──うまく云えないんだけど、なんだか希薄になっているような気がするの」
「面白いですね」
除夜はまだ薄笑いを浮かべていた。
「つまり、ユイコさんにとって大事な存在であったシンイチさんが、その存在ごと希薄になってきた──そういうことですか」
「理屈じゃないの」
マダムは唇を嚙んだ。
「なんだか、危うい気がするのよ。このままだと、本当にね──」
「本当に殺してしまうかも」
それまで除夜の隣で大人しく話を聞いていたミサキが真顔で云った。
こうなると、除夜は分が悪い。ともすれば、確信にも似た「女の勘」に追い込まれ、
「いいんですか」
と問われてしまったら、もう軽口では返せない。
なにせ、「一人も殺させない」と宣言してしまったのだから、「いいんですか」と迫られた以上、安易に受け流すわけにはいかなかった。
✻
マダムの話によると、ユイコさんは〈塔ノ下〉町の住人ではあるらしいのだが、どのあたりに住んでいるかは知らず、鉄道の駅で三つ離れた〈天神町〉の銀行に勤めているとか──。「窓口で働いていると云ってたわ」
それで除夜は、「わたしも行きます」と勝手についてきたミサキを伴い、マダムから教わった銀行に訪うと、
「あのひとでしょうか」
ミサキが遮光眼鏡を外して、右から二つ目の窓口を凝視していた。まるで、そこだけ天窓からの光が当たっているかのようで、ユイコさんの肌の白さがそうした印象をもたらす一因であるのは間違いなかった。
目を凝らしたミサキは、窓口の客が離れた隙に、胸にピンでとめた名札を見つけ、
「ソ・ウ・マ・ユ・イ・コ」
と小声で読み上げた。除夜はその名を耳にしながら、しばらく立ち尽くし、視線をユイコさんに据えたまま沈黙していた。
「あれ?」とミサキは除夜の横顔をうかがっている。「もしかして、ひと目惚れしちゃいました?」
ぴんっとおでこを弾かれたように除夜は正気を取り戻し、
「いや、考えごとをしていました」
と急いで首を振った。
「知ってますよ、わたし」
ミサキは遮光眼鏡のグラスに付いた埃を「ふっ」と息で払い、
「除夜さんがそうして丁寧な話し方になるときは、たいてい、噓をついているときです」
「いや、そんなことは──」
「彼女が美しい女性であることは、よく分かりました」
ミサキは踵を返し、少しばかり足早になって銀行を出た。(どうしてかしら)と自らの心持ちが、いまひとつ解せない。(なんだか面白くない)と唇が自然と尖った。
「どうしたんです?」
わざとらしく丁寧な口調で訊いてくる除夜に、
「どうもしません」
とミサキもわざとらしく噓をついた。
二人はぎこちない足どりで〈塔ノ下〉へ戻り、除夜はそのぎこちなさを払拭できないものかと、間に合わせの思いつきで、
「友人を紹介したい」
と六月の古本屋へミサキを誘った。
六月が顔を合わせるたび、「あのお嬢さん」とミサキの話を蒸し返すので、この際、彼女がどんな「お嬢さん」であるか、直接見ていただこうという魂胆である。
「はじめまして」
六月とミサキは短く挨拶を交わしたが、ミサキは六月を一瞥するなり、明らかに頰を赤らめていた。なぜなら、六月が彼としてはめずらしくミサキの顔をじっと見つめたからで、除夜の魂胆を超えた何ごとかが──すなわち、ミサキが品行方正な面立ちの女性であると理解してもらえればそれでよかったのだが、それ以上の感興が六月の瞳に灯りをともしていた。
除夜は除夜で、胸中に云いようのないもどかしさが湧き上がってくるのを覚え、
「そういえば──」
と、さしたる考えもなく六月に話しかけた。
「まさかとは思うけれど、もしかして、ソウマユイコという女性を君は知っていますか」
「ソウマ──ユイコ──ですか」
六月はその名を繰り返し、
「ああ」と顎を上げると、「半年ほど前のことですかね、本を買ってほしいとご自分で抱えていらっしゃいました」
思いがけない答えだった。
「ご主人の蔵書だそうで、なかなか通好みのいい本が揃っていましたので、それで印象に残っているんです」
「なるほど」
除夜は頷き、柔らかい光を放っているかのようだった彼女の面貌を脳裏に呼び戻していた。
(「第五話 ひと目惚れ[其の二]」へつづく)
┃著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。