吉田 篤弘
第六話 スナイパー[其の一]標的となる物や人などから結構な距離を隔てた上で、主にライフル銃を用いて狙撃を行う人物のことをスナイパーと云う。
そうしたスナイパーが撃った弾が、ただの一度もはずれることなく標的となる物や人に連続的に着弾する様を百発百中と云う。
しかしながら、仮に現象としては百発百中であったとしても、着弾によって失われる物や人の存在に思いが至り、失われた物や人にこそ尊いものが宿っていたのだと悟ったときに訪れる、どうしようもない自責の念を後悔と云う。
✻
よく、いらっしゃった、名探偵──。さすがだよ、除夜さん。
やはり、おれが見込んだだけはある。ここへ上がって来れたってことは、あの面倒な暗号を解いたってことだ。
いや、あんたなら難なく解いてみせるだろうと踏んではいたんだ。他のぼんやりとした探偵には、まず解けない。あんたなら、あの程度の数字の遊びは、小一時間もあれば解いてみせるだろうよ。
いや、あの数式の暗号はおれが考えた。こう見えて、おれは化学を志していたんで、やわな言葉より、数字の方がよほど信頼できるんだ。
まぁ、この〈希望の塔〉っていうのは、一応、立入禁止ということになってる。巷の噂では、中はがらんどうのハリボテで、こうして塔の上までのぼって来れるとは、皆、夢にも思っていない。
しかし、あんたも驚いたろうが、このとおり、中もしっかりとつくられた塔で、ただし、この最上階までのぼってくる階段は厳重に封印されている。一階のあの隠し扉を開けないことには、階段があるってことすら気づかない。
それで、あんたに送ったあの手紙に、隠し扉を開ける術を暗号にして仕込んだわけだが、数式から導かれた数字が意味するところを理解しなければ、扉は開けない。しかし、この難題を解いた者であれば、おれの望みを依頼するに値するだろうと、そう考えた。
まぁ、あんたは名の知れた探偵なわけだし、すでに探偵としての才能はお墨付きだ。
それに、昨今は──これもまぁ、巷の噂だが──あんた、事件が起きる前に謎を解いてみせるとか?
事件が「殺し」ということになれば、命が救われるわけで、
「誰一人殺させない」
と宣言したそうじゃないか。
大したもんだよ。
しかし、起きるはずだった事件を事前に押さえ込んでしまうわけだから、新聞にも載らないし、それどころか、誰にも知られることなくそれっきりだ。したがって、あんたの功績がはたして宣言どおりなのか、誰にも分からない。
そこで、おれがおのれの命運をかけて、あんたの力量を判断してやろうじゃないかと、こう考えた。
というのも、あんたへの手紙に書いたとおり、おれは近々、殺されることになってる。
それを阻止してほしい。
単純な依頼だよ。それだけでいい。おれの命が助かればね。
で、なぜ殺されると分かっているか──。
その理由を話したくて、あんたをここへ呼び出した。
どうしてなのかってな。
おれはいま薬局で働いてる。化学に親しんだおかげで、免許もどうにか取得でき、毎日、真面目に通って、きわめてまっとうに仕事をこなしている。
いまのおれはね。
しかし、いまの仕事に就く前のおれは、人目をはばかる物騒な仕事を請け負っていた。
殺し屋だよ。
狙撃専門のね。スナイパーってやつだ。
そもそも、おれがいつどこでスナイパーとしての訓練を受けたかはいっさい云えないんだが、それはそれは生半可な訓練じゃない。
できる限り、遠く離れた所からライフル銃を使って対象者を狙撃する。はずすことは許されない。百発百中をもとめられ、おれは訓練を受けた数十名の中で、「最も優秀」と評価された。ただの一度もはずしたことがなかったからね。
あんたはそうしたことにおれより通じているかもしれないから、多くは語らんが、そうした訓練を経た者は、まぁ、ようするに、誰かの命を守るために、誰かの命を奪う任務に就くことになる。
殺し屋と呼ばれる輩の仕事じゃなく、正統なスナイパーとしての公務だ。
しかし、訓練を終えて、いざ任務に就こうとしたとき、おれはその矛盾に直面して、心と体が離反してしまった。分からなくなったんだよ。仕事の意味がね。
だから辞退した。
辞退して、くすぶっていた。
おれは家族と別れていたし、ただただ自分を持て余していたんだ。
そこへ思いもよらない話が舞い込んだんだ。おれのライフルの腕を聞きつけた奴が、裏の仕事としてのスナイパーをやらないかと持ちかけてきた。
つまりは、殺し屋をやらないかってことだ。
身も心も荒んでいたおれは、ふたつ返事でその話に乗った。
魔が差したんだよ。
で、実際に請け負って、いざとなったら、またしても戸惑った。腕には自信があったんだが、どこから対象者を狙えばいいのか皆目分からない。誰にも気づかれない思いがけない所──それでいて、相手がこの街のどこにいようとも、狙い定めることができる所。
そう。ここだよ。
この〈希望の塔〉の最上階だ。
ご覧のとおり、ここは東西南北三百六十度を見渡せるようになってる。よく云うだろう? この街のどこにいても、この塔が見えるって。それはつまり、ここから街のすべてを見下ろすことが出来るってことだ。
この十年で、八人殺った。
八人とも、ここからだ。
依頼人はそれぞれで、八人につながりはない。若い奴もいれば、老人もいた。誰とは云えないが、あんたの知ってる奴もいたんじゃないか?
あるいは、「犯人を探してくれ」と警察に頼まれたかもしれんな。
だとしたら、あんたは犯人を見つけ出せなかったか、見当違いな誰かをしょっ引いたんじゃないか?
なにせ、おれは一度も捕まっていないんだから。
いや、逃げおおせた自分を自慢したいわけじゃない。
話は逆だ。
殺し屋をやめて、まっとうな仕事に就き、まっとうな人生を歩み出したら、急に後悔の念が湧き起こってきた。
おれはとんでもないことをしてしまったって。
だが、いくら悔いても、八人の命は戻らない。どうやっても、取り返しがつかない。
おれはおれが許せなくなった。
分かるか? あんたたちが捕まえてくれたらよかったんだ。だが、その機会がないまま、ここまで来てしまった。
それでだ。
おれは自分でおれを殺ることにした。
おれがおれという殺し屋に依頼したんだよ。ひと思いに殺ってくれってな。いい考えだろ? なにしろ、おれは腕がいいからね。百発百中だ。
ところが、殺し屋のおれは、おれを殺れなかった。
おれにできるのは遠く離れた所から狙撃することで、それ以外の殺り方を何ひとつ知らない。頭の中では、殺し屋のおれと殺られるおれとの二人に分離できるが、実際のこの体はひとつきりだ。
おれにはおれが狙撃できない。
それでおれは、おれじゃない別の殺し屋に殺ってもらうことにした。
依頼したんだよ。おれの次に腕っぷしのいい奴にね。
いや、驚くことはない。
歯医者は自分の歯を治療できないだろう? それと同じだよ。
ただし、おれたち殺し屋は徒党を組まない。お互いのことを何も知らないんだ。噂に聞くだけでね。向こうもおれを知らないし、おれもそいつがどんな顔をしているか知らない。男なのか女なのか。歳はいくつぐらいなのか。背は高いのか低いのか。何ひとつ知らない。
だから、いくつかのツテを辿って、どうにか依頼した。
二週間ほど前のことだ。
こいつを殺ってくれ、とおれの情報を伝えた。顔写真付きでね。
つまり、今日ここで、あんたに会えるかどうかも危ぶまれたんだが、いまのところ──あくまでいまのところだが──まだ殺られていない。
というか、殺られたくないんだよ。いまのおれはね。気が変わったんだ。
いや、怖じ気づいたわけじゃない。
娘が訪ねてきたんだよ。急にね。とっくの昔に別れた女房とのあいだにできた娘だ。二十年ぶりらしい。
母親と仲違いをして縁を切ったとか。それでおれを探して訪ねてきた。
「一緒に暮らせないか」って。
神様はいつだって残酷だ。でも、仕方ない。おれは何も云えないよ。云えるようなタマじゃない。
だけど──しかし──されどもだ。
生きたい。
そう思った。
許されるものなら──いや、許されないと、よくよく分かっているんだが。
もう少し生きたい。
そう思った。
(「第六話 スナイパー[其の二]」へつづく)
┃著者紹介
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。
吉田 篤弘(よしだ・あつひろ)
作家。
1962年東京生まれ。小説を執筆するかたわら、「クラフト・エヴィング商會」名義による著作と装幀の仕事を手がけている。著書に『奇妙な星のおかしな街で』(春陽堂書店)、『つむじ風食堂の夜』(筑摩書房)、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(暮しの手帖社)、『おやすみ、東京』(角川春樹事務所)、『月とコーヒー』(徳間書店)、『中庭のオレンジ』(中央公論新社)など多数。