松井 久子
第13回 家族って何だろう?
 家族って何だろう?
 これは古今東西、時代を超えて、世界中の人びとが考えてきた普遍的なテーマだと思う。
 家族ほど、誰にも共通して重要な主題はほかにないのではないか。
「家族は仲良くなければならない」とか、「血の繋がった家族ほど大切なものはない」といった思い込みや常識に、私たちはどれだけ縛られてきたことだろう。
 実際は仲が悪かったり、関係が壊れている家族がゴマンとあるというのに。
 もちろん仲がいいのに越したことはない。しかし実際は、家族にまつわる固定観念の呪縛のせいで、不幸になっているケースが山ほどあるのだ。
 今回、思いがけず再婚をしたことによって、また夫となった人の家族との予期せぬトラブルが起きてしまったために、改めて「家族とは?」というテーマと向き合うことになった。
 私は、祖母、母、そして私たち4人の子のうち3人が姉妹という女中心の家族のなかで、男は気弱な父と一番下の弟だけという女性上位の家庭に育った。
 そして20代の前半に、そんな家族の一員から逃げ出したい一心で、結婚をした。
 強い男に憧れて、彼とともに自前の家庭をつくろうと息子をひとりもうけたが、私が夢見た家族像は「はかない幻想だった」と、すぐに知ることになる。
 そして家族を守るための努力と試行錯誤も実を結ばず、ついに10年後、青すぎた結婚生活に自らの手で終止符を打ってしまった。
 愛したはずの夫がつくろうとした家庭は、彼自身が育った昔ながらの家父長制根強い家族像を踏襲するものだった。
 横のものを縦にもしない夫と、日々はらはらと夫の横暴な要求にしたがう妻。
 振り返れば滑稽としか言いようのない10年の結婚生活を経て、私は「単親家族」の道を選んだ。
 そしていま、遠くヨーロッパの地に暮らす「単親家族」の息子は、自分がつくったノルウェー人の妻との家庭を、母親同様、自らの手で壊して、元妻と暮らす9歳の息子と頻繁に会える距離にいたいからと、ドイツ・ベルリンの地に住んでいる。
 この夏、ベルリンの息子とノルウェーの孫が、再婚した私と逸平の住むこの多摩川べりの家にやってきて、3週間ほど生活をともにした。
 その間、4人で旅に出て、南紀州の熊野古道を歩いた経験は素晴らしかった。
 息子と私が先導して、90歳の夫と9歳の孫と共に熊野古道を歩く。彼らが帰郷すると決まってから、ずっと頭に思い描いていた私の夢が実現したのだ。
 旅の前日に息子がプレゼントしたステッキを、逸平は人生で初めてと思えないほど巧みに操りながら、木漏れ陽のなかを歩いていた。孫がその背を見守りながら、汗を拭き拭きついていった。
 歩く区間は熊野古道全体のごく一部だったけれど、90歳も9歳も予定の十数キロを、泣き言ひとつ言わず歩き切った。
 旅のほかにも、横浜や表参道に買い物に出かけたり、家に友達を招いて息子のつくったロースト・チキンに舌鼓を打ったり…と、仲のいい「家族ごっこ」をして過ごして、楽しかった。幸せだった。

 ところが、その家族の輪のなかに、去年の夏は一緒にいた知美さん夫婦の姿がなく、孫娘の茉莉さんもいなかった。
 たった1年で、あれだけ幸せ感いっぱいで老親の再婚を祝う会をした家族が、こんな風にあえなく散り散りになってしまうのか…。
 知美さん夫婦は5月の半ば、大きな荷物は残したまま、この家を出ていった。
 それきり知美さんからは何の連絡もない。もちろん住所も知っているが、「パパ、元気にしてる?」といった電話の1本が、ないのである。
 家族って何だろう? と、また考えてしまう。
 考えて、そして思い直す。
 逸平と二人で暮らすようになって、私がこんなに楽になったのだから、知美さんもさぞかし自由になったことだろう。もともと、家族だからと縛り合う必要なんてないのだから、と。
 そのいっぽうで、逸平が30歳を迎える直前に結婚した妻の治子さんと、いったいどんな家庭をつくってきたのかや、ひとり娘の知美さんにとってどんな父親であったかが気になった。そしてそれは、彼自身が育った家庭環境を聞けば、なんとなくわかった。
 人の性格や、陥りがちな行動パターンの大半は、幼い頃にどんな家庭で育ったかで決まる。誰の人生もそうではないか。
 逸平は、昭和8年、工業地帯川崎の中心街で燃料店を営む影山商店の三男に生まれた。そして、逸平が10歳になるかならずで父親が病死してしまった。
 そのせいか、昭和の男でありながら逸平は、家父長制の影を背負っていない。
 いま、妻となった私にももちろんだが、先妻の治子さんに対しても「妻はこうあるべきだ」と押しつけたり、娘の知美さんに対して、強く父権的な親だったりするところが、まったくない男だったようだ。
 じっさい、たとえば彼と再婚してからの私がやっていることは、昼と夜のご飯をつくるのと、家の中の掃除、そして洗濯機を回すだけである。嫌いな掃除はいい加減に、好きな料理はちょっと丹念にするだけで、どちらも妻となったからの役目ではない。
 いっぽう、毎朝のゴミ出しも、朝食をつくるのも、毎食後の食器洗いと片づけも、洗濯物を畳むのも、クリーニング屋に出しに行くのも引き取りも…、日常的に繰り返される家事の大半が、逸平の仕事なのである。私にしてみれば、彼は再婚する前もずっとその習慣だったので「元気なうちはその仕事を奪わないほうがいい」と都合よく決めこんでいるだけだ。
 そして、それらの仕事が苦もなくできるということは、「家事は女の仕事」という固定観念が、彼には皆無なのだろう。
 つまり逸平は、根っからリベラルな人で、むしろ親になっても我が子の教育のために「父親はこう振る舞わなくてはならない」といった<べき論>のたぐいを、まったく持たない男だったのである。
 もちろん、そうした影山逸平の個性こそ、私がこの歳になって再婚を選択した大きな理由のひとつであるのだが。いや、もしかしたら、幼くして父親を亡くした彼には、そもそも自分のなかに構築した「男親像」も、「夫像」もなかったのかもしれない。
 若くして夫と死に別れた逸平の母親は、優しく強い明治の女で、三男の彼はとにかく「母を助けたい」という思いだけが強い少年だった。
 また、第二次世界大戦が始まったばかりの頃に出征した長男が中国で戦死するという、あの時代に多くの庶民家族が背負った不幸に、影山家もご多分にもれず見舞われていた。
 戦争がらみのそんな境遇も、逸平の人格形成に大きな影響を及ぼしていたようだ。
「長男が戦死したばかりか、次男も志願して土浦の海兵隊に入隊してね。特攻隊の一員として出撃を待っているあいだに、敗戦になった。その頃ボクは中学に上がったばかりだったが、やがてその次男が、特攻崩れの暴君となって帰ってきてね。日本のファシズムそのものの兄が家の中で見せる、殴ったり蹴ったりの横暴を、我々弟たちは心底憎んで育ったんだ」
 幼い頃に父親を亡くし、母親に頼られながら、厳しい次兄の姿を反面教師にして育った逸平は、人一倍心の優しいひとだ。
 誰に対しても自我を押しつけることがないので、すぐれた学者にはなれても、教育者には向かなかったかもしれない。
 そして、妻となった治子さんと60年にわたって築いてきた家庭では、それぞれに社会的な成功をおさめた、人もうらやむ夫婦であったろう。
 60年の結婚生活のあいだ、互いの仕事には一切干渉し合わず、妻は名の知れた、夫は知る人ぞ知る大学教授=文学博士となり、理想的なインテリ夫婦であり続けた。いつだったか逸平が、
「ボクはね、若い頃から妻の背中を追いかけるように、教師のキャリアを積んできたんだよ」
 と話してくれたことがある。
 子どもの頃から「男の沽券」などといったものに縁のなかった彼は、治子夫人と夫婦であった間じゅう、公私ともに妻を支え続ける夫であり、彼女が望む夫像を演じ通した。
 そして約6年前、世間的に名の知れた影山治子教授が83歳でこの世を去ったとき、同い年の夫は、マスコミに訃報記事を書いてもらうため、あちこちのメディアに連絡して精力的に動いたばかりか、2度にわたる盛大な葬儀をひとりで取り仕切った。
 そして後日、彼女が教鞭をとった大学でお別れ会を開催するのにも、労を惜しむことなく奔走し、華やかに、盛大に、亡き妻が満足するかたちで葬送の儀式をやり通したという。
「彼女は世間的な評価とか、社会的名声などを絶えず求める人だった。そんな妻の個性を、生きている間は軽蔑したり批判したりしていたのだけどね。死んだときは、どうしてか、本人の望むかたちで送ってやりたいと思った」
「心から?」
「ああ、心からね」
 聞きながら、「それが影山逸平という男だ」と思った。
 幼い頃、戦争によって家族を壊された男が、治子さんという伴侶とともに家族をつくり、60年ものあいだその家族を守り通した。
 そしていま、私には、
「残念ながらあの結婚は、擬制ぎせいの結婚だった」
 と言いながら、妻がこの世を去ったときには、
「あんなに一生懸命、人にも社会にも尽くしてきたのにね、最後は孤立していた。ひとりぼっちだったんだ。それが可哀想でならなくてね」
 と振り返る。
 私と再婚をした直後には、長野県の山のなかの公園に連れていってくれて、彼の尽力で植えた治子さんの記念樹の成長ぶりを一緒に見て、二人で手を合わせることもできた。
 家族って何だろう?
 家族にも幸福にも、これと決まった形などない。
 家族とは、やはりそれぞれの心のなかにある、「虚構」なのではないか?

第14回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。