松井 久子
第14回 自己犠牲のヒロイズム
 最近はだいぶ柔らかくなったけれど、ちょうど2年前、私がまだ彼の講座に通い始めた頃の逸平は、ときとして気難しい一面を見せることがあった。
 もともと口数が少なく、人づきあいが苦手な性格もあって、意識してかどうか近寄りがたい雰囲気をまとっているので、けっして明るい人とは言えないだろう。
 2017年の夏に治子さんを冥界に送った後、80代半ばの父親は、同居する娘たちとほとんど言葉を交わすこともなく、老いの日々をただ孤独感のなかで送っていたようだ。
 毎日、午前中は原稿を書き、午後は健康維持のため小田急線に乗って4駅先のジムに通い、30分ほどの運動をすると、サウナに入って汗を流す。そしてジムの帰りには、駅前のスーパーマーケットで自分の夕食のためのお惣菜を買って家路に着く。そんな判で押したように規則正しい生活をおくる孤独な老人。それが妻の治子さんが死んだ後の、夫・影山逸平の姿だった。
「毎晩、テーブルの向かい側でね、娘夫婦が自分たちの作った料理を食べているんだよ。その前でボクは、買ってきたパック入りのお惣菜をつついている。ときどき、娘たちの料理がやけに美味しそうに見えて、『ちょっと食べてもいいか?』と聞くと、婿さんが『あ、どうぞ、どうぞ。よかったら食べてください』なんて、慌てて言ったりしてね」
 娘婿に促されて、ようやく娘たちの温かい料理に箸を伸ばす。そんな暮らしを、特におかしいとも寂しいとも思わなかったという。
 週末になれば神保町の古書店街に通って、古本市を歩いて掘り出し物を見つけては、家に戻ってその書物を読んで過ごす日々。
 逸平老人は、そんな生活が、妻に先立たれた夫の当たり前の暮らしと思っていたのである。
 妻が生きていたときもだが、娘夫婦と3人で暮らすようになってからも、毎朝のゴミ出しや、家の前の通りの掃除、町内会のつきあいなどは、すべて逸平の仕事だった。
「俺がやらなくて誰がやる?」
 そう考えて、家まわりの仕事を完璧にこなすこと。それが90歳を迎える自分の、若さを保つ秘訣でもあった。
「俺が元気なうちはいいが、できなくなったら、この毎日のゴミ出しを誰がやるんだろう」
 などと考えながら、誰にも任せられない家事が老人の張り合いにもなっていた。
 そして、もしこの先身体が不自由になっても、娘たちに介護してもらうなどは望めない。そろそろ、なるべく快適そうな有料老人ホームを見つけなくては…と考えていたところに、私との出会いがあったのだ。
 その出会ったばかりの頃の逸平の口癖が、「自己犠牲のヒロイズム」だった。
「ボクを支えてきたのはね、誰にも頼れない、自分がしっかりしなきゃという、“自己犠牲のヒロイズム”だったんだよ」と。
 この家に来たばかりの頃、知美さん夫婦に聞いたことがあった。
「どうして彼は、スーパーのお惣菜なんか買ってきて、食べていたの?」と。
 できるだけ責めている感じにならないように、と気をつけながら。
 すると二人はカラカラと笑って、
「老人扱いして、あの人に喜ばれると思いますか?」
「パパは、何でも自分流にやらないと気が済まない人なのよ。それに、あれだけ元気で誇り高い男だもの。そのプライドを尊重してあげなきゃ」
 その答えのいちいちに、もっともだと思ったのだ。
 知美さんたちが、特に冷たい家族だったわけではない。逸平の持つ矜持をおもんばかっての、見て見ぬフリだったとの主張が。
 しかし逸平は私と一緒になってから、すぐに「妻のつくる家庭料理」が当たり前になった。
 たまに私が仕事や友人との約束で家を空けるときなど、「美味しいものを食べておいで。ボクはジムの帰りにスーパーの惣菜を買って帰るのが惨めだなんて、これっぽっちも思わない人間だから」と言いながら、「一人で食事をするほど味気ないものはない」などとも口にするようになった。
 そしていつの間にか「自己犠牲のヒロイズム」という言葉は、滅多に言わなくなっていた。
 1月に、「多華子さんの顔を見ると過呼吸になる」という理由で、知美さんが「この家を出たい」と言い出してから、5月に引越しをするまで、私はもちろんのこと父親の逸平も、同じ屋根の下に暮らしながら、ほとんど知美さんたちと顔を合わせることがなかった。
 引っ越しの日が5月の12日に決まって、その3日前から、私は父と娘が水入らずで心置きなく話せるようにと、結婚した後もそのまま置いてある逗子の部屋に戻っていた。
 すると、引っ越し当日の午後4時頃、
「いま出て行ったから。早く帰ってきてよ」
 と、電話がかかってきた。
 聞けば、私がいなかった3日間は、父と娘が顔を合わせることもなく、引っ越し当日の午後3時から、荷物を積み終えたトラックの待つ玄関先で1時間ほど激しく言い争って、父と娘は別れたのだという。
 逸平の、たったひとりの娘。
 治子さんとの母娘喧嘩のたびに「娘の盾になって、妻を叱ることが多かった」父親が、このような形で別れることになるとは…。
 私のせいだったのか?
 自分を責めてみようとして、またも現実感が薄いのだった。
 すべてのことが、起こるべくして起きたことのようにも思える。
 私にできることは「この人を大切にすること、それだけだ」と考えていた。
 まだ知美さん夫婦がこの家にいた頃、逸平は、毎朝、眼を覚ましたベッドの中で、毎朝、何かを考えているようだった。
 何を考えているかは薄々わかったので、「何を考えているの?」とは聞かなかった。
 そして、知美さんが家を出ていってからは、朝のベッドで考えている様子が次第に少なくなっていった。
 広く大きな家で、取り残された老人二人が、以前よりも声を上げて笑うことが多くなり、過去のことや未来について、ほかにもたくさんのことを、何でも包み隠さず語り合うようになった。
「ボクはあなたに会うまで、自分のことや、己の胸の内で考えていることを、誰かに話すなど、一度たりともしたことがなかった。そんなことはあり得ないことだと思っていた」
「そうね、知美さんがよく言っていた。パパは自分のプライベートな話になると、『やめてくれ!』と言っていつも席を立って3階に上がってしまったって」
「そうだった。ところが最近、多華子とこうして語り合うのが、当たり前になってきた。この作業がどんなに大事かがわかってきたよ」
「そうなのね、ならよかった」
「ボクと治子とが長い時間をかけてつくってきた、夫婦の欺瞞ぎまんや、いびつな家族の姿…それがいま、炙り絵のように浮かび上がって見えてきたんだ。自分の孤立感を、“自己犠牲のヒロイズム”などと気取ってきたけれど、もうそんなものは、大量の本と一緒に捨てることにしたよ」
 そんな話を、訥々とつとつとする。
 もう、自己犠牲のヒロイズムなんていう、陳腐な虚勢を張らなくていいのだ。
 互いを形だけで縛りあう家族など、壊れたっていい。そんな幻想は捨ててしまおう。
 健康で、互いを大切に思える伴侶がいる。それだけで十分幸せだ。
 私たちはそう思って、晩年の生き直しを始めている。
「こんなものが出てきたよ」
 4階の納戸で片づけをしていた逸平が降りてきて、1冊のファイルホルダーを差し出した。
 見れば、遠い昔に治子さんが大学生の頃の知美さんに宛てて書いた、膨大な量の手紙のコピーである。
「私が、読んでいいの?」
 半信半疑で問うと、逸平が肯いて、
「ここに普遍的な日本の家族の姿があるよ」
 と、言った。
 読んでみたいのは山々だが、それでも躊躇いが先に立ってしまう。
 だって、自分たちの秘密を、死後に夫の妻となった人間に読まれるなんて、治子さんは考えもしなかっただろう。
 そういえば治子さんは、もう40年以上前に、知美さんが海外で教育を受けることになったその家族の経験を書いて、出版し、それがベストセラーになったことがあった。
「こうやって、とってあるということは、あとで本に書く資料にするか、誰かに読んでもらいたかったんだよ」
 逸平に促されて読み始めると、すぐに引き込まれて、止められなくなった。
 万年筆で書かれた、長い、長い、何通もの手紙から、我が娘をどんな思いで育てたか、母親の切々たる情愛が溢れんばかりに伝わってきて、胸が苦しくなるほどだ。
 そしてそこには、以前のベストセラー本にあったような、若き日の逸平と、治子さんと、知美さん、3人家族の幸せな日々の光景はなく、20歳になった娘に理解されない母親の苦悩が、克明に綴られていた。
 母親の住む東京、娘の住むミュンヘン、そして単身赴任で大阪に暮らす父親…と、家族は物理的にも距離ができたように、心もバラバラになってしまったようだった。
 逸平の「自己犠牲のヒロイズム」は、この頃にはすでに始まっていたのだろうか?
 家族は壊れる。簡単に壊れる。
「壊れる」という言葉には負のイメージがつきまとうけれど、実は、壊れることはそんなに不幸なことではないのかもしれない。
 それぞれの想いが食い違ったり、すれ違ったりしたときに、家族は壊れる。
 が、その想いは、因習や社会通念などによって、いつの間にか身につけさせられたものかもしれず、その人が主体的に選び取ったものかどうかはわからない。
 少なくとも、いまの逸平と私がつくり始めた家族、私の息子と孫が営む単親家族は、不幸でも何でもない。
 そして、この家を出ていった知美さん夫婦にとっても、今回の選択が前向きで、幸福になるためのものであって欲しい、と願うしかないのである。

第15回へつづく)

プロフィール

松井 久子(まつい・ひさこ)
映画監督・作家。
1946年東京出身。早稲田大学文学部卒。雑誌のライター、テレビドラマのプロデューサーを経て、1998年『ユキエ』で映画監督デビュー。2002年の『折り梅』は公開から2年で100万人を動員。2010年公開の3作目は世界的彫刻家イサム・ノグチの母の生涯を描いた日米合作映画『レオニー』。2013年春からはアメリカをはじめ世界各国で公開された。その後ドキュメンタリー映画『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』『不思議なクニの憲法』を発表。2021年2月には小説『疼くひと』で75歳の作家デビュー。2022年11月に2作目の小説『最後のひと』を上梓。