第1回 江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』 謎の「オンモリ」

清泉女子大学教授 今野真二
『春陽堂書店発行図書総目録(1879年~1988年)』(春陽堂書店、1991年6月30日)の「序文」には「春陽堂の創業は明治11年2月である」「創業者和田篤太郎は、西南の役に従軍し、終戦後、東京で書籍を商う小店を始めた。以来百余年、小社は明治、大正、昭和、平成と、とにかく出版業を続けてきた。その間には多くの変化に出会ったが、特に日本橋に事業の礎を置いた為に、関東大震災と太平洋戦争では大きな被害をこうむった。震災では倉庫も経営者の住宅も焼失し、戦災では再び社屋と倉庫を失った」と記されている。
 筆者にとって、春陽堂といえば、「ボール表紙本」の出版社であり、森鷗外、夏目漱石、泉鏡花、谷崎潤一郎の作品の出版社である。前に引用した「序文」には明治、大正、昭和、平成と元号が並んでいるが、現時点ではそれに令和が加わった。日本語を考えた場合、明治の日本語については研究が比較的進んできている。しかし、大正、昭和となるとまだまだということになりそうだ。日本で唯一の多巻大型国語辞書である『日本国語大辞典』第2版も、大正、昭和の日本語となれば、まだとりいれる余地はあるだろう。そういうことも視野に入れながら、春陽堂から出版されたさまざまな書籍を紹介しながら、その書籍をかたちづくっている日本語についても併せて紹介していくのが「春陽堂レトロスペクティブ─本と日本語─」ということになる。
 出版された時期を追って紹介していくというやりかたもあるだろうが、そのことにはあまり気をつかわず、筆者の気ままにまかせていただき、こんな本を出版していたんだ、という驚きと、こういう日本語が使われていたのか、という驚きや気づきを気楽に楽しんでいただければと思う。
 第1回目は江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』を紹介したい。【図1】の書影は筆者の所持本であるが、これは大正15(1926)年1月10日に発行された5版である。この本は「創作探偵小説集」の第2巻として刊行されている。

【図1】

 以下に各巻の内容を掲げる。発行の月日は、筆者所持本の刊記を提示した。発行年のみのものは、所持本で確認した情報ではないということをあらわしている。筆者所持本で確認している場合は、その所持本の版、刷などをわかる範囲で示した。いささか煩雑に見えるかもしれないが、本を話題として採りあげるので、書誌情報はできるだけ正確に示しておく必要があると考える。第1・2・4・7巻は江戸川乱歩の作品を収めているが、この第4巻は平成5(1993)年に春陽堂から「完全復刻版」が出版されている。
・第1巻 江戸川乱歩『心理試験』(大正14年7月18日発行、8月1日3版)
・第2巻 江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』(大正15年1月1日発行、1月10日5版)
・第3巻 甲賀三郎『琥珀のパイプ』(大正15年) 
・第4巻 江戸川乱歩『湖畔亭事件』(大正15年9月26日発行、10月23日10版)
・第5巻 小酒井不木『恋愛曲線』(大正15年11月13日発行、11月15日5版)
・第6巻 甲賀三郎『恐ろしき凝視』(昭和2年)
・第7巻 江戸川乱歩『一寸法師』(昭和2年3月20日発行、4月1日8版)  
『屋根裏の散歩者』には「屋根裏の散歩者」を始めとして「踊る一寸法師」「人間椅子」など、14作品が収められている。

 さて、『屋根裏の散歩者』の日本語であるが、次のようなくだりがある。
 以下、引用にあたって、漢字は「常用漢字表」に載せられている場合は、その字体を使い、載せられていない場合はもともと使われていた字体にちかい字体を使う。「かなづかい」は「原文」のままとし、拗音、促音に小書きの仮名があてられていない場合はそのままにする。振仮名は原則として省き、「本文」理解のために必要と筆者が判断した振仮名のみ示すことにする。繰り返し符号には筆者の判断で文字を補う。

三郎はこの口がどうにも気に入らないのでした。鼻の下の所から段をして、上顎と下顎とが、オンモリと前方へせり出し、その部分一杯に、青白い顔と妙な対照を示して、大きな紫色の脣が開いてゐます。 (20頁:屋根裏の散歩者/【図2】)

【図2】

フツクラと、硬すぎず軟かすぎぬクツシヨンのねばり工合、わざと染色を嫌つて、灰色の生地のまま張りつけた、鞣革なめしがわの肌触り、適度の傾斜を保つて、そつと背中をささへて呉れる、豊満なもたれ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上つた、両側の肘掛け、それらのすべてが、不思議な調和を保つて、混然として、「安 楽コンフオート」といふ言葉を、そのまま形にしてゐる様に見えます。(268頁:人間椅子)
「オンモリ」は一瞬「コンモリ」の誤植かな? と思いそうだが、異なる作品でも使われているので、そうとも考えにくい。右の二つの文章からは、「コンモリ」にちかく、もっと小規模な感じで、盛り上がった様子をあらわしているように思われる。『日本国語大辞典』は「おんもり」を見出しにしているが、それは「方言」として見出しにしているのであって、奈良県宇陀うだ郡「小高く盛り上がったさま。こんもり」、愛知県名古屋市「人柄が重厚な、また、鷹揚おうようなさま。おっとり」と記されている。どちらも右の「オンモリ」にはぴったりとこない。乱歩はどこでこの語を覚えたのだろうか。

【図3】

【図1】は外箱。瀟洒しょうしゃなデザインだが担当者が示されていない。
【図2】は版面。すっきりとしたレイアウトで読みやすい。
【図3】は奥付。江戸川乱歩の本名は平井太郎なので、著作者検印として「平井」というはんこがおされているが、少し左に傾いている。これは復刻版でも似ているので、あるいははんこをおした人物の癖か。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

春陽堂書店発行図書総目録(1879年~1988年)
春陽堂書店が1879年~1988年に発行した図書の総目録。書名索引付き、747ページ。序文は春陽堂書店5代目社長・和田欣之介。
表紙画は春陽堂から刊行された夏目漱石『四篇』のものをそのまま採用しました。

乱歩の日本語(春陽堂書店)今野真二・著
乱歩の操ることば──その“みなもと”と、イメージとの“結びつき”を探る書。
明治27 年に生まれ昭和 40 年に没した江戸川乱歩は、明治~大正~昭和期の日本語を操っていたことになる。テキストとそこに書かれた日本語を分析することで、推理小説作家乱歩のあまり知られていない側面を描き出す 。
「新青年」「キング」などで連載した初出の誌面も多数掲載した、これまでにない乱歩言語論。
この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。