日本のミステリー小説を語る際に欠かすことができない作家、江戸川乱歩。
1925年に春陽堂が刊行した『心理試験』は、「二銭銅貨」や「D坂殺人事件」といった初期作品を収めた、乱歩にとってはじめての創作集でした。
それ以来、春陽堂と乱歩のつながりは強く、多くの書籍を刊行してきました。
1955年には、全16巻の『江戸川乱歩全集』を、1987年には、装丁を飾った多賀新の銅版画が好評を呼んだ『江戸川乱歩文庫』(全30冊)の刊行もスタートしています。
2015年には、『江戸川乱歩文庫』の中から人気のある13冊を、2018年からは第二期として、残りの17冊のリニューアル版が刊行されました。
ここでは、各文庫の読みどころを紹介していきます。
復讐劇、大活劇、恋物語がぎゅっと凝縮された読み応え抜群の探偵小説『魔術師』
明智小五郎や少年探偵団、怪人二十面相──。江戸川乱歩の作品を読んだことがない人でも、彼らの名前を耳にしたことはあるかもしれません。乱歩は大正から昭和期にかけて数多くの作品を発表した推理作家です。あまりにも有名なので、「硬い文章で読みづらい推理小説」というイメージを持つ人も少なくないでしょう。しかし、ひとたび読み始めたら、空想とも現実ともつかない不思議な世界観に引き込まれるはずです。
本作『魔術師』もそんな作品の一つです。明智小五郎が主人公の探偵小説で、明智と後の夫人である文代が初めて出会うことでも知られています。哀しい生い立ちに翻弄される文代の苦悩と、明智の男心を覗くことができるという貴重な一冊です。戦前の作品でありながら今読んでも全く古くささを感じず、違和感なく読み進められます。
「蜘蛛男」事件解決後、しばしの休養のため湖畔のホテルに滞在していた明智は、大宝石商の娘・玉村妙子と知り合い、彼女に心惹かれていきます。それが玉村家の怪事件へかかわることになる始まりでした。ところが、早々に明智は表舞台から姿を消してしまうのです。
明智不在の中、密室殺人事件や実行不可能な状況下での事件、出来事が起きます。生首を乗せて隅田川を漂う獄門舟、時計塔文字盤上の断頭台、舞台で晒し者にされる裸の美女に迫る道化師の大ダンビラ、そして異様な地下室に映し出される生埋め地獄映画。背筋も凍る猟奇的な場面が、これでもかと言わんばかりに描かれていて、思わずその勢いに飲みこまれそうになります。
本作の大きな特長は、二つあります。まず、残虐性だけではなく、本格ミステリーとしての矜持を保っているところです。物語の最後で、妙子との出会いこそ、乱歩が張った最初の伏線であることが明らかになるのですが、冒頭でこの場面が伏線だとは、明智はもちろんのこと読者はつゆほども疑うことはないでしょう。一つの事件が解決したかと思えば、そこにひとかけらの謎が残されていて、そしてまた次の事件が起きる。なぜ復讐劇は続くのか、真の黒幕は誰なのか。結末を予測することは難しく、物語終盤まで読者の思惑を軽快に裏切り続けます。
二つ目は、エンターテイメント度の高さです。さまざまな趣向を凝らした見せ場がたくさんあり、最初から最後までテンポよく、派手な立ち回りが続くので、読者を飽きさせることがありません。また、「読者はすでにそれが何物であるかを悟り、筆者の悠長なかきぶりをもどかしく思っていられることであろう」や「それとも、もしや、もしや……」といった、読み手を煽るかのような語り口も、読者のページをめくる手を止めさせない、乱歩ならではの仕掛けです。
身内の恨みを一身に背負う魔術師による復讐劇、どんでん返しの連続である大活劇、二人の美しい女性に想いを寄せられ、ついに将来の夫人に出会う明智の恋物語。三つの要素が凝縮された本作は、実に読み応えがあります。こと恋愛という面において、完全無欠ではない人間臭さのある明智に、どこか親しみを覚えることでしょう。殺人を是とするわけではありませんが、復讐を成し遂げようとする魔術師の意志や絶望など、裏役である登場人物の心情が“少し”わかるというのも乱歩作品ならではの醍醐味です。
乱歩研究の第一人者・落合教幸氏による巻末の解説にあるように、乱歩の作品は必ずしも時系列に沿って読まなければならないということはありません。ただ、『魔術師』冒頭は「蜘蛛男」事件を終えた明智についての記述から始まっているように、明智のこれまでの事件を知っておくと、名探偵としての彼の活躍を把握しやすくなります。
本作で明智小五郎に初めて出会った人は、落合氏の解説を参考に、明智初登場作品『D坂の殺人事件』や、次に登場する『心理試験』なども手に取ってみてはいかがでしょうか。