自由律の俳人、種田山頭火が生まれた山口県防府(ほうふ)市には、山頭火ゆかりの場所が今もなお町中に点在しています。このシリーズでは、山頭火に詳しい方々への取材を通して、種田山頭火の知られざる魅力に迫ります。


防府を出て各地を遍歴した種田山頭火は、愛媛県松山市で亡くなりました。山頭火の故郷、防府市の護国寺には墓所があり、著名人をはじめ、多くの山頭火ファンが訪れています。また山頭火の書など貴重なコレクションも公開されています。今回は、境内に句碑を建立したり、資料収集に当たってこられた曹洞宗護国寺(防府市本橋町)の橋本隆道住職にどのような経緯で、護国寺に山頭火の墓所が置かれるようになったのかを伺いました。

山口県防府市にある護国寺住職の橋本隆道さん。

── 山頭火と護国寺との関係を教えてください。
 もともと種田家のお墓がこの近くにありました。国道2号線を広げることになり、護国寺の西側にある市営墓地に移転してきたのです。その際、護国寺の観音堂で一時的に骨を預かり、市営墓地のお墓に戻したのが、20代目住職である私の父(隆哉)です。
山頭火の葬儀は松山で行われ、息子の健さんが防府に遺骨を持ち帰ってその墓地に葬ったのです。種田家は浄土真宗ですが、山頭火が出家したのが曹洞宗ですので、同じ曹洞宗である護国寺で面倒を見ていました。
 当時、山頭火のお墓は墓標もなかったと父からは聞いています。その後17回忌の法要の際に、参列された方たちが句碑を作り、お墓もないから作ってあげようということで、建てられたのが今の墓所です。ですから昭和15(1940)年に亡くなって昭和31(1953)年の17回忌に兼崎地橙孫(句友)の揮毫により「俳人種田山頭火之墓」が建立されました。位牌も父が作りました。私はまだその頃は高校生で、山頭火にはとくに関心を持ってはいませんでした。ただ毎年10月11日の命日になるとその位牌を出し、何人かいらして供養しておられたのを記憶しています。

── 山頭火のお墓が市営墓地から護国寺に移転したのは、どのような事情からでしょうか?
 市営墓地に山頭火のお墓を訪ねて、観光客が来はじめました。そのうち永六輔さんや水上勉さん、瀬戸内寂聴さんなど、著名な方もおいでになりました。私が大学を卒業して高等学校の国語の教員だった時には、永六輔さんがテレビの撮影で網代笠(あじろがさ)をかぶって墓にお参りにいらっしゃるというので父が電話をかけてきて、「お前、授業が空いているんやったらちょっと帰ってこい」と。あの頃はまだ車がなかったので、自転車で急いで帰った覚えがあります。多くの人が市営墓地にあるお墓を訪れるようになったので、ちょうど寺内のお墓をきれいにする時に、私の父が「山頭火のお墓も寺で面倒を見てあげよう」と言いはじめたのです。

護国寺の境内にある山頭火の墓。

 種田家のお墓も、はじめは妹さんが見ておられました。父も市営墓地まで出かけて手入れをするよりは、寺の中にあれば少しは草むしりをしたり、お花も供えたりできるから、山頭火の墓と母親の墓などそのまま一緒にして、世話をしたらどうかと考えたのです。
 山頭火の後援者だった俳人の大山澄太先生に相談したところ、「それでは息子さんとの仲を取り持ちましょう」とおっしゃってくださったので、健さんに許可をもらうための手紙を出しました。健さんからは「あれは種田家が作った墓ではないから」と返答がありました。
墓を市営墓地から護国寺に移したのは昭和57(1982)年頃です。それから健さんもおいでになって今の墓所にお参りをされました。お骨は半分熊本の種田家の墓へ、半分はこの墓地にあります。

── 境内にある山頭火の句碑は、どのような経緯で建てられたのですか?
山頭火に「おたたも或る日は来てくれる山の秋ふかく」という句があります。その原本を松山の句友だった高橋一洵(たかはし・いちじゅん)さんの息子さんが、当時、防府で山頭火の顕彰(けんしょう)をするために集まっていた山頭火研究会にくださいました。私が預かって、それを最初に句碑にしました。

境内には計13基の句碑があります。

 その時に「肉筆が手に入ったら全部句碑にする」と研究会のみんなに約束してしまいました。そうしたところ、意外に早く次々と手に入り、これでは寺中が句碑になってしまうので、13基建てたところでやめました。
 句碑はできるだけ肉筆の原本に近いものにしました。教員時代に文芸部の生徒たちを連れて、近隣の歌碑や句碑の拓本を取って歩いていたことがあり、山頭火の句碑を作るなら、だれもがすぐ拓本を取れるような大きさにしておこうと考えました。一つだけ大きいのがありますが、ほかは小さく作っています。ですから、全国から句碑の拓本を取るために人が訪れます。福岡からも毎年夏休みに、高等学校の書道部の生徒が20人ほど来ていましたね。

御影石に句を刻まれた 山頭火の自筆「枝に花が梅のしづけさ」。

── 山頭火の資料もたくさん集めていますが、山頭火に対する顕彰活動とどのように関わってきたのでしょうか。

護国寺内に展示されている山頭火に関する資料。

 私は今78歳で、山頭火が亡くなった昭和15(1940)年に生まれています。また12歳のときに澤木興道老師について私は出家しました。山頭火は熊本の大慈寺でこの方の法話を聞き、座禅などしたようです。そのようなことで山頭火と全く縁を感じないわけではなかったのです。はじめは父がやっていたことをそのまま受け継いだだけでした。
 父が山頭火に関わっていたこともありますが、私自身が国語の教員でもあり、防府から出た文人に対する啓蒙と顕彰をしたいという思いから、活動に足を踏み入れることになりました。
 30代後半のころ、防府で4人ほどの仲間と山頭火研究会を作り、のちに山頭火ふるさと会として会員をつのり、山頭火全国フォーラムを25回開催したり句会を行いました。みんな手弁当でしたが、研究仲間がいなければ、ここまで顕彰活動は続けられなかったでしょう。

(取材・2018年6月下旬)


山頭火が生まれた町、山口県防府市を旅する【4】「護国寺」住職インタビュー<後編>へ続く
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