本書のタイトルにある「忘れる」とはなかなか勇気のいる行為ですね。それが自覚的であれば尚更のこと。では、どうしたらタイトルの通り「忘れるが勝ち」にたどり着くかというと、本書では「忘れること」「思い出すこと」の解説から実践法へと進み、後ろを向く(思い出す)ことを放棄し、そこから「忘却」という一定期間を経てあらためて、あるいは無意識に導かれて浮き上がってきたものにこそ価値があるのだと説いています。

かつて学び舎で教鞭を執るセンセイが、「はいここテストに出るよ〜」というキラーワードを発すると、我々生徒はパブロフの犬が如くヘッドダウンしてノートに書き留める。こんな光景は誰の記憶にも一つや二つ心当たりがあるでしょう。はたしてテストにソレが約束を果たすべく期待通りに問題として出た後に、それでもまだ、頼まれてもいないのに記憶していた人がどれくらいいたのでしょうか。そんなことよりも、好奇心旺盛な(例えば僕のような)男子が、スリランカの首都などのような、好奇心をそそる珍しい名前はなんの苦もなく憶えているのはどうしてでしょう。「憶えておこう」と自分に命じてもいないのに。

この本の中で著者は、「人が話をしている時にメモを取っている人は、大事なことを書き留めているようで、大事なことを聞き逃している」といった指摘をしていましたが、おそらく人間の機能は我々が思っている以上に優秀にできていて、その人の何がしかの琴線に触れたものは、いつかその人に思い出されるために、記憶装置のどこか片隅で、再び登場する機会をうかがっているのではないでしょうか。実際に「なぜかあの人の言ったあの一言を今でも憶えている」とか「あの曲のあの歌詞が頭から離れない」といった体験をお持ちの方は少なくないでしょう。

本書では「忘れること」について、著者のいろんな体験・事例を踏まえてその重要性を説いています。誤解を恐れずに飛躍した言い換え方をすると、「新しい想い出し方」と言ってもいいかもしれません。日々の仕事や勉強で知識を詰め込むことに、いささか疲れている人などには、箸休め程度に読んでみると、なかなか面白い効果があるかもしれません。少なくともストレッチにはなるでしょう。

また、やがて来るAI時代に対して著者がこんなことも述べていました。「人工知能はすばらしく“頭がいい”らしい。すぐれているのは記憶で、人間はそれに対抗することは難しいだろう。ただ忘却ということになると、はなしは変わってくる。キカイ(機械)は人間のように器用に忘れることができない」と。「AIに仕事を奪われる」なんて恐れおののいている人間としては、なかなか励まされる言葉ですが、それがどうしてなのかは、この本をお読みになれば多少はおわかりになるのかもしれません。あるいは、これからの時代を前向きに生きるためのヒントを著者が差し出してくれるでしょう。

余談ですが、著者は書評が嫌いらしく、頼まれてもしたことがないなんてことを文中に書いていましたが、こうして書評のようなものを書いている僕自身は、そのことについては身勝手に忘れようと思います。


文/中村 秀一(SNOW SHOVELING BOOKS&GALLERY)


関連書籍

『忘れるが勝ち!前向きに生きるためのヒント』外山滋比古(春陽堂書店)
人間が生まれ持った「忘れる」という能力が、いかに素晴らしいかを95年の長い人生を振り返りながら説く。大ベストセラー『思考の整理学』(ちくま文庫)以来、著者が一貫して読者に提示してきた考え方のコツを交えながら「忘却」の効用を披露し、前向きに生きてくための知恵が満載の一冊。