【第37回】


涼を求めて銚子へ
 今年の夏は暑かった、と毎年そう言っている気がするが、いや間違いない。暑かった。8月の猛暑日が8月29日に11日を数え、これは観測史上最多の記録となった。毎日の天気予報を見る時も、晴れか雨かより気温をまずチェックする。その時気づいたのだが、東京で35℃の時も、銚子は4℃ほど低く31℃ということが多かった。千葉県のほかの地域では東京とあまり変わりないから、銚子が特別なのだ。
 なぜ銚子の気温は少し低いのか。これは海辺の町ということがあり、海水温が大気より上昇しないから、その分涼しくなるのだという。詳しく調べれば、さらにいろいろな理由が見つかるのだろうが、まあいいでしょう。とにかく銚子は少し涼しいというイメージがこの夏、私の中に植え付けられた。では、行ってみようじゃないのと、「青春18きっぷ」の第4回目を使って月末に出かけてきた。
 銚子へは、娘が幼かった頃に家族で一度、その前に独りで行っている。今回は15年以上ぶりのことではないか。東京駅で地下深く潜ったホームから朝8時ぐらいの総武線快速に乗車。成田空港行きであった。このまま成田まで乗り、成田線で銚子へという手もあるが、総武本線の方が早いと判断して佐倉で乗り換える。ここで30分近くの待ち。
 千葉で待っても同じだった総武本線の普通列車銚子行きに乗り継ぎ、再び車中の人に。途中、水田が広がる光景を両側に何度か見たが、けっこう稲が倒れている。台風は来なかったはずだがなぜだろう。ほとんど無人の駅が目立つが、八街やちまた、横芝、八日市場などは駅前にロータリーを持つちょっとした街である。総武本線はホームのはずれに、吸い殻入れを設置した喫煙可の駅が多い。駅構内に吸い殻入れを持つ駅は、少なくとも東京で見ることがない。昔はゴミ箱、痰ツボなどと一緒にセットになっていたものだ。

 銚子には11時過ぎ着。最寄り駅からは4時間かかった。駅を出て観光案内書でガイドマップをもらって、昼飯を食べようと思っていたが、同じホームの端からすぐに銚子電鉄が出るというので、そのまま乗り込むことに。長い金髪を両側でくくった若い小柄な女性駅員が車内を移動しながら切符を販売する。終点の外川とかわまで往復するなら「一日乗車券」が同額で便利。2両連結はゴトゴト揺れながら、森を抜け、住宅街を抜けていく。スピードはかなりゆっくりめで、遊園地のおサルの電車みたい。途中、有人の木造駅舎で「髪毛黒生」があった。これで「かみがみくろはえ」と読む。薄毛の人にご利益のありそうな駅名だ。ホームで犬が飼われている。銚子電鉄は駅そのものにそれぞれの個性がある。
 12分ほどで外川駅着。ここは終着駅の傑作で、黒い木造駅舎がそのまま使われている。赤い鋳物ポスト、古い銚子電鉄車両が展示されており、さながら昭和レトロ博物館。多くの「鉄」人がここで写真を撮る。私も撮る。コンビニも牛丼屋も食堂も喫茶店も、まったく何もない駅前である。このあと、犬吠埼灯台を目指すなら、一つ手前の犬吠駅まで戻るのが正解なのだが、以前からすぐ目の前に海が広がる外川の漁師町を歩きたいと考えていたので実行する。とにかく海が見たかったのだ。
 両側に民家が立ち並ぶ細い坂道が外川港へ続いていて、ずっと下りである。すでに青い海が見えている。太平洋である。民宿らしき宿が一軒と、営業しているか不明の理容店はあったが、そのほか憩えるような店は見当たらない。だらだらと海岸の防波堤まで出て、海沿いの道をゆっくり犬吠埼目指して歩き始める。たしかに海風は涼しいが、直射日光の強さはむしろ東京以上で、熱波に包まれる。銚子が涼しいだなんて、考えが甘かったのである。

 約2・5キロの道のりは死のロードと化した。人体を保護する影は地面に張り付いておらず、ただただ炎天下を歩くのみ。なぐさめは潮の香りと、ざぶんと岩にぶつかり砕ける波の音ぐらいである。犬吠埼灯台のことをたっぷり書こうと思っていたが、たどり着いた時は軽度の熱中症に罹っており、あんまりよく覚えていない。腕を伝う汗が手のひらから指先まで流れ、ぽたぽた地面に落ちていく。バケツ1杯分くらいの汗をかいたのではないか。灯台入り口で300円を支払い、100段近いらせん階段をどうにか上り、展望台へ出たが目の前をちかちかと星が飛び、気を失いそうになる。あわててすぐさま降りてしまった。何をしにいったか、よくわからない銚子行きであった。やれやれ。


島木譲二のこと
 吉本新喜劇には個性的で多彩な劇団員が歴代、さまざま登場してきた。私が熱心に見ていたのは、間寛平が新人で出始めた頃ぐらいまででずいぶん古い。労務者姿の花紀はなききょうと食堂のおやじに扮した原哲夫のコンビが好きだった。
 その中に島木譲二(1944~2016)という特異な人物がいた。ストーリーとはあまりからまず、いきなり服を引きちぎり、上半身裸になって両腕で何度も叩きつける「パチパチパンチ」が得意ネタであった。あと、金属のお盆、一斗缶で頭を殴りつけるなど過激な肉体酷使が売り物。言っておくが、こういうのは「ギャグ」とは本来呼べない。
 72歳で急逝した時、歳をいくつか(4歳?)若くごまかしていたと聞いた。思えば年齢不詳で、この世界に入ったのも遅い。島木譲二は芸名で、若き日に観た映画『俺は待ってるぜ』の主演・石原裕次郎が元ボクサー・島木譲という設定で、これに憧れ命名したという。「譲二」は「譲次」と、ちょっと変えた。島木もミドル級の元ボクサーで、毎日放送の千里丘スタジオで警備員をして経済を支えていた。ここに吉本の芸人が出入りし、新喜劇入団の機縁となった。
 笑福亭鶴瓶は警備員時代の島木と顔見知りになり、よく話をしていた。するとある日、吉本の芸人になっていたので驚いたという。あまり前例のない、芸界入りのエピソードかと思う。
 強面が売り物であったが、意外な一面があったことが新喜劇座長を務めた小籔千豊かずとよによって明かされている。島木が小籔に「レモンティー飲みに行きましょう」と誘った。「喫茶店」というのではなしに「レモンティー」というのが意表を突いている。喫茶店に行って、小籔が見ている前で、島木はレモンティーのレモンをスプーンでぐちゃぐちゃに崩し、そのレモンで紅茶をかき回して飲んでいた。私はこういう話が大好きなのである。


チャーハン万歳
 昼間、家に独りでいることがときどきあって、昼食も自分で作ることになる。たまに、むしょうにチャーハンが食べたくなって、「そうだ、チャーハンだ」と勝手に盛り上がるのだ。そうなると、頭には「チャーハン」という言葉だけが占めて、ほかの何物も入らなくなる。
 料理と呼べるかどうかと思われるほど、非常に簡単な食べ物で、調理にかかる時間も短い。というか、時間が短いことが勝負となる。いいですね、書く方でも気合が入ってまいりました。
 たいてい冷凍庫にタッパーに詰めたご飯が入っていて、まずそれを取り出す。あれこれ用意する間、少し自然解凍をしておくのだ。材料はたまご、長ネギ、あとチャーシューがあればいいがハムかソーセージでも十分。そこに私はカニかまぼこを加える。これがいい仕事をするのです(うちは冷やし中華や卵焼きにも入れるため常備)。
 たまごは溶いておいて、ほかの材料を細かく刻んで皿に乗せる。塩、こしょう、化学調味料、中華だしの素、しょうゆなども鍋の近くに集めておくのも大事。なにしろ、準備さえ整えばあとは一気呵成にことが進むのだ。
 少し自然解凍したご飯を電子レンジで2分強加熱。その間に中華鍋をレンジにかけ、点火。ずっと強火であります。油(ラードでもいい)を落とした鍋に熱が通ったら、溶いた卵を投下。軽くへらでかきまぜ、解凍したご飯を投入。ご飯にたまごがコーティングされるように、へらで押し付けるといい。次いで刻んだ材料も一緒に加える。刻むようにご飯と材料を混ぜ、調味料を加えてさらにへらを忙しく動かす。この間、中華鍋を粋がってあおったりしない。ずっと火にくっつけたまま。
 結局、町の中華店がおいしいのは、技術もあるが、ラーメンスープが用意されていることと、火力が強いことの2点が大きい。かなわないのは承知で、せめてその半分か6割ぐらいの味に近づけたい。それには鍋を振らないことだ。鍋を火から離せば温度が下がる。これがもったいない。マンガ『美味しんぼ』でチャーハンが取り上げられた時に、鍋を大きく振って、空中にご飯が飛ぶ際に下からの火であおられて「パラパラ」になる、なんて書かれていたと思うが、家庭では厳禁。料理は曲芸ではないのである。
 ほんの数分、具材がご飯と混ざったら、しょうゆを鍋の縁から細く丸く円を描くように入れて、ここでようやく鍋を何度か振って返して出来上がり。この出来立ての熱々を、はふはふ言いながらほおばると、いやあ、これは上出来でないかい、と独り言が出てしまう。
「チャーハン万歳」と小さい声でだが、叫びたくなるのだ。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。