【第65回】


素顔のままで
 若き日、60を過ぎてそんなことをしているとは想像もつかなかったが、じつは今でも袋入り即席ラーメンを食べる。家族が留守で、一人だけ昼飯を食べるというようなときに、買い置きのを作るのだ。やっぱり手間いらずで、しかもおいしいのが魅力だ。
 私はたいてい、ネギを刻むぐらいでほかには何も入れない。お湯は多めに沸かしておく。麺をゆでたのは使わず捨て、鉢に粉末スープを入れてお湯で溶かすぐらいのことはする。ほとんど「素」ラーメンだ。買うのはチキンラーメン、エースコックのワンタンメン、日清の出前一丁、サッポロ一番のしょうゆか塩で、一時期生麺タイプのものに凝ったが、油で揚げた系の古典に戻ってきた。昔からずっと売られ続けているものが、けっきょく一番舌に合う。きわめて保守的な舌なのだ。
 ところで、料理関係のウェブサイトを見ると、袋入り即席ラーメンをひと手間かけたらこんなにおいしくなるというような記事が多数ある。野菜と肉を炒めて投入するというのはシンプルなアレンジレシピで、私もやることはある。塩ラーメンにバターをひと欠片落とすことも。しかし、それ以上のことは面倒だし、邪道だと思っている。人気ラーメン店の店主がそっと教える……などというのを見ると、「余計なお世話だよ」と思ってしまう。そこまでするなら、本職のラーメン店へ行って食べる。私はなるべく何にもしないことこそが、家ラーメンの本道だと考える。本道って? つい力が入ってしまった。
 つまり袋入り即席ラーメンはあくまで「即席」が命。最近の若者は、カップ麺しか食べなくて、袋入りは敬遠するのだと聞いたことがある。たしかに湯を注いで待つだけならより「即席」だ。しかし、袋入りを鍋でゆでて、別スープで食べるおいしさとはまたちょっと違うのではないか。
『極道めし』(土山しげる)というマンガがあった。刑務所に収監された受刑者の男たちが、娑婆でもっともうまかった「メシ」について語るという一話完結の物語。食堂にあった単行本を、料理が出るまでに読んだ記憶によるもので正確ではないが、こんな「即席ラーメン」ばなしの回があった。
 老人が言うには、冬の日、工事現場の誘導の仕事を終えて、安アパートへ帰ってきた夜のこと。お金がなくて、買い置きの袋入り即席ラーメンを作って、鍋からじかに食べた。もちろん具も「ひと手間」もなし。鼻水をすすりながら、暖房もない部屋でひたすら素ラーメンをすすりこむ。これがなんとも美味そう。「素」の力である。
 即席ラーメンでずいぶん引っ張ってしまったが、繰り返して言う。袋入り即席ラーメンは「素」で食べてこそ神髄をつかめる。「素顔のままで」とビリー・ジョエルも歌ったではないか。ちなみに写真はサッポロ一番の塩だ。名作である。


勝海舟の氷川邸の門が石神井にあり
 わりあい熱心に見ているNHK大河ドラマ『青天を衝け!』も11月に入り、いよいよクライマックスへ向けて佳境を迎えようとしている。幕末から明治維新、新しい日本建設へと実業家の渋沢栄一が奮闘する。かつて仕えた15代将軍慶喜は静岡に蟄居。と、そこで気づいたのだが、同じく慶喜配下にあった勝海舟の姿が、このドラマに見当たらない。幕末を描いて、動乱の立役者の一人だからそんなことはないよなと思いつつ、キャストを見たらやっぱりいない。同ドラマを見ている知り合いに話したら、「いや、坂本龍馬だって出てませんよ」と言うのだ。驚いたなあ。
 いい機会だから『新訂 海舟座談』(岩波文庫)を少し読んでみることにした。明治も30年を経て、海舟は老人となり東京・赤坂氷川町の広大な邸で静かに暮らしている。旧幕時代の話を聞こうと次々と人が訪問する。同著解説(校注者・勝部かつべ真長みたけ )によれば氷川町の邸は約2500坪。ここへ「あまたの人士が出入りし、海舟の談話を喜び聴いた。一種のサロンのような役割を果たした場所である」という。そのうちの一人が、本書の聞き書きをした巌本善治いわもとよしはる。明治女学校の経営者で雑誌『女学雑誌』の主宰者でもあった。
 ほかに座談をまとめたものとして有名な『氷川清話』、海舟全集に収録された「清譚と逸話」などがあり、いかにその座談が魅力的であったかがわかる。『海舟座談』で面白いのは、内容もそうだが、ざっくばらんで伝法な語り口にあろう。
「殖やさないようにだけするのサ。水野越前の時でも、国家のためとか、外国に対してどうとか言って、それは八釜やかましかったが、その後、向う(アメリカ)に行って見ると、どうしてどうして、大変なものだ」というのは「女郎」の話。これは有名な話だが、じつは海舟こそ女癖が悪くて、あちこちに妾を作り子供まで産ませ、女中に手をつけるなど妻・民子を困らせた。よって民子は夫の海舟と同じ墓に入ることを拒んだ。
 決して刀を抜かなかったというのも意外な話。
「私は、人を殺すのが、大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。みンな逃がして、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた」
 まあ、そんな話はどこを読んでも書いてある。私が最初の方を読んでいて気に留めたのは、巌本による海舟邸の様子の中で「漆器の蠅取り器械」について書いている個所だ。一体、明治の「蠅取り器械」とはどんなものか。なんでも「蠅が砂糖に迷って舐めているうちに、段々と奥へ乗せてゆかれ、再び出て来られぬ仕掛け」で「ギイギイと廻っている」とのこと。愛知県岡崎市立中央図書館の「岡崎むかし館」のサイトに、「はえとりの道具」が紹介されていて、これはガラス製だが同様のものらしい。どこかの博物館に収蔵されているだろうか。ちょっと見てみたい気がした。
 もう一つ注目したのが巌本解説の中に、海舟邸のその後のことが書かれている件。海舟は1899年に死去するが、その後に勝家は広大な敷地の大部分を氷川小学校のため東京府に寄付し、その後屋敷も取り壊された。しかし、屋敷門が「練馬区石神井台の三宝寺に移築され、今もその姿を残している」という。以前、東京の坂巡りに夢中になっていた折り、坂の宝庫である赤坂もずいぶん歩き回り、海舟邸跡の碑を見つけたことがあるが、門だけとはいえ実物が現存するとは知らなかった。とっくに跡形もないと思っていたので、これは朗報といえるだろう。
 石神井ならわりあい近い。さっそく『海舟座談』を片手にいそいそと出かけることにした。これも東京西郊在住の強みである。西武池袋線「石神井公園駅」を下車。石神井公園めざしてふらふらと歩きだす。紅葉にはまだ早い秋の一日、公園では思い思いに散策する市民の姿が見える。井草通りを挟んで東西に二分し、両側に池がある。海舟邸の門を保存する三宝寺はその西側、「三宝寺池」のあるエリア南側に位置する。
 途中、「禅定院ぜんじょういん」もチェックしておく。上林暁の代表作「野」で、主人公が鬱屈する気持ちを散らすため、野を歩き、石神井公園とこの禅定院を訪れている。上林ファンとしては見逃すことはできない物件である。
 ウィキペディアによると三宝院は、応永元年(1394年) に鎌倉・大楽寺の幸尊法印(?~1398)によって開かれた。当時石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていた。豊島氏が滅んだあと、後北条氏や徳川家からも保護を受け、発展した、とのこと。

 三宝寺は本堂以外にも大師堂(奥の院)、根本大塔、観音堂、大黒堂、それに観音像、鐘楼を備える立派な古刹であった。境内もゆったりと広い。かつて徳川家光鷹狩りの休憩場として使われ、もって徳川家ゆかりの寺院となった。山門も「御成門」と呼ばれる。
 山門とは別で、境内にある長屋門が目当ての海舟邸のもの。ここを海舟の座談聞きたさに、連日、大勢の人がくぐったのだ。門の上に「海舟書屋」と彫られた扁額がある。これも海舟邸にあったものか。『氷川清輪』によれば、佐久間象山の家に架かっていたこの文字を気に入って、「海舟」の号としたとのことである。さらにこの長屋門だが、海舟邸から直接ではなく、「兎月園」という成増の遊園地からの移築であるという。ワンクッションを途中で挟み、さらに保存されたことは僥倖であった。
 このあと、せっかくだから井草通りを南下、西武新宿線の「上井草」駅まで歩く。ここに「井草ワニ園」という不思議な店名の古本屋があるのだ。メインはグラノーラというシリアルの販売で、一緒に古本を売るうち後者が増殖し、今や立派な一軒の古本屋となっている。とにかく値段が安く、買いごたえのある店だ。この日も単行本では『東京さんぽ図鑑』(スタジオワーク)、文庫を6冊も買う。買い控え、買い渋りが進む私としては珍しい買いっぷりだ。
 なかに古山寛・原作、谷口ジロー・作画の『柳生秘帖 風の抄』(秋田文庫)があった。谷口ジローファンの私としては珍しく未所持の一冊で喜んで買ったのだが、中を開いてびっくり。巻頭1ページ目が明治31年冬の東京で、いきなり「ここ赤坂に“氷川町のホラ吹き”などと呼ばれたりもする老人の屋敷がある」と始まる。なんと、勝海舟であった。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。