新潟市の西大畑に生まれた坂口安吾は、その地で、少年期まで生活をしていました。その生家近くに残された、築90年を超える旧市長公舎を利用する形で作られたのが、「安吾 風の館」です。洋風の応接間を使用した展示室では、安吾の遺愛品や作品資料などが、テーマに沿って展示されています。
「安吾 風の館」の館長を務めるのは、カメラマンとしても活躍する、坂口安吾のご子息・坂口綱男さん。『坂口安吾歴史小説コレクション』の編者である七北数人さんとともに、安吾作品を後世に残すべく、活動をされています。
インタビュー後半では、父としての安吾、母としての坂口三千代さんの思い出と、著作権継承者としての思い、そして一番好きな安吾作品について、お話をしていただきました。


『安吾のいる風景』について
──春陽堂書店から『安吾のいる風景』を刊行した後、何か変化はありましたか?
坂口綱男館長(以下、坂口館長) 『安吾のいる風景』を刊行したのは2006年でした。その後、新聞社などから続編をやりたいという話もありました。桐生版をやりたいという話もありましたね。その頃、デジタルミュージアムのことも考え始めていたので、ひとまず、資料を撮影し始めました。ただ、やり始めてから、その大変さが身に染みた…… 生原稿がフラットに撮影できるように、掃除機を使って後ろから吸い込む装置をつくってみたり(笑)。いろいろなガラクタをつくりました。でも、その時様々な資料を撮影しておいたので、いまでも役に立っています。「風の館」の展示会のポスターなどは、学芸員と相談をしながら、自分たちで作っています。館の運営もすべて自分たちでやっています。

安吾の生家跡地を案内する坂口綱男館長(2018年10月13日)

息子として、著作権継承者として
──著作権継承者として、大変だったことはなんでしょうか?
坂口館長 私は20歳のころ、いちど安吾から離れました。安吾の息子であることを表立たせないで、生きていこうとした。その間は、母が安吾の語り部をしていました。母の、安吾作品の出版や映画化などに対する神経の使い方は、尋常じゃありませんでした。たとえば母の著作である『クラクラ日記』をベースにドラマが作られたのですが、脚本について著作権者の母がOKを出さないために、脚本家が変わったこともありました。
文庫の『坂口安吾全集』の装丁は横尾忠則さんに書いてもらいましたが、この絵に対しても、うちの母はダメ出しをしていました。編集者が横尾さんに書き直しをお願いするのですが、私がハラハラしていたのをよそに横尾さんは快く書いてくださいました。逆に言えば、そのぐらい安吾は、三千代さんに守られていた。基本的には、「原作に忠実じゃないといや」というスタンスでした。実際の安吾の姿がまげられることをゆるさない。でも、けして意固地なだけではなかった。むかし、野田秀樹さんの『贋作 桜の森の満開の下』を、母と一緒に見に行きました。その時、僕は隣で見ていて、「夜長姫と耳男」と「桜の森の満開の下」を「こんなにまぜこぜにしていいのか」と思っていました。舞台が終わった後、野田さんが挨拶に来ました。すると、母が大喜びしていたんです。それには驚きましたね。でもそれは、野田秀樹さんが安吾を理解していたからです。それであれば、受け入れるという人でした。
ご自身が著作権継承者になってからの変化はありましたか?
坂口館長  前に、矢田世津子さんへの手紙を資料集として出版するという話がありました。許可をしましたが、たぶん、母だったらOKしなかっただろうなと思いますね。『なぜ生きるんだ』という安吾の言葉を抜粋して本にしたこともありましたが、息子として、複雑な気持ちを抱いています。「落ちよ、生きよ」という言葉もそうですが、言葉だけが独り歩きしている気はしています。それでも、基本的には、相談があれば「No」とは言わないようにしています。
ただ、相談されたときの企画書と、完成して公開されたときのギャップが激しかったり、面白おかしくするためにある部分を誇張されると、落ち込むこともあります。安吾のことを、理解してくれていないなと思うケースもいくつかあります。理解していなくても、そのまま表現してくれればいいのですが、誤った形で伝えられたくはないですね。どの作家の継承者も、同じ気持ちだとおもいます。

坂口綱男館長による、安吾ゆかりの地案内の様子(2018年10月13日)

作家の子どもという話でいえば、笑い話があります。私が子どもの頃、切手収集のブームがありました。小学校5、6年生ぐらいの頃ですね。使用済みの古い切手なんて大した価値はないのですが、切手が欲しいから、家にある安吾宛の書簡に貼られた切手を片っ端から集めていました。結果として、切手のない書簡が大量に残されたわけです。でも、封筒に貼られた切手に日付が入っている事は、研究上とても重要なことです。だから、全集を編纂しているとき、七北数人さんにはさんざん恨まれました(笑)。でも七北さんがすごいのは、それでも、日付をしっかりと割り出したこと。すごいなと思います。
── 同じエピソードを、七北さんにインタビューをした際にも、お聞きしました(笑)
坂口館長 前に風の館での展示のために、尾崎士郎さんのご遺族から資料を預かったことがありました。その時にも、封筒から切手が切り取られていました。それをみて、これは作家の子どもあるなるなんだなと思いました(笑)。

新潟市の護國神社内にある安吾の記念碑。裏には、尾崎士郎の言葉も記載されている。

これからの坂口安吾
── いちばん好きな、安吾の作品は何ですか?
坂口館長 いろいろなところで言っているのですが、やはり「桜の森の満開の下」ですね。小学校と中学校の間の時期に読んだ、最初の安吾の小説だったからだったというのもありますが、感動的な体験でした。当時住んでいた四谷は桜の名所として有名です。「桜の森の満開の下」を読み終えた時はちょうど明け方で、自転車で四谷のお堀沿いの桜を見に向かったら、ちょうど満開だったんです。そこで、あの小説はなんだったのだろう、この桜の下で消えるって何なんだろう、鬼になるってなんだろう、と考えてしまいました。そこで心に残ったのは、「孤独」ということです。安吾は「文学のふるさと」という文章の中で「約束が違う」と表現していますが、まさにその感覚でした。それまでに読んだ小説というのは、教科書に載っていた「走れメロス」ぐらいでした。ですから、「桜の森の満開の下」を読んだ時の、「約束が違う」という感覚が忘れられません。
いまでも、その季節になると、桜の下に行きたくなります。でも、花見をしている酔っ払いがいたりしてうるさい。以前のような「孤独」を感じることが難しくなってしまいました。桐生で本当に静かな桜の木の下にいったことがあるのですが、その時もとても感動しました。そこが静かだったのは、マムシがでる場所だったからみたいですけどね。それ以外の桜の木の下は、ブルーシートが敷かれているような、風情がないところばかりです。いつかまた、安吾が描いたような桜の木の下に行きたいなと思います。親族もみな「桜の森の満開の下」が好きです。いつも、「いつか行ってみたい」という話をしています。
あと、安吾は「推理小説家になりたい」とか「純文学の作家になりたい」とか、そういった考えはまったくなくて、書きたいものを書いていました。自分が興味を持ったものの、深いところに入っていくというのは、私も同じなのかなと思うときがあります。私は写真家になりたかったわけじゃなくて、写真を撮っていたら、それが仕事になっていた。写真を撮るのが楽しくて、それが仕事であることがうれしい。安吾関係の仕事もそうですね。面白いからやっているんです。
── 長い時間お話をいただきましたこと、ありがとうございました。    (終わり)

 坂口綱男(さかぐち・つなお)

1953年8月、群馬県桐生市に坂口安吾の長男として生まれる。写真家/日本写真家協会会員。1978年よりフリーのカメラマンとして広告、雑誌の写真を撮る。同時に写真を主に文筆、講演、パソコンによるデジタルグラフィック・ワーク等の仕事をする。1994年11月、安吾夫人・三千代の没後は、息子という立場から、作家「坂口安吾」についての講演なども行っている。また写真と文で綴った「安吾のいる風景」写真展を各地で開催。主な著書、写真集に、『現代俳人の肖像』(春陽堂書店、1993年)『安吾と三千代と四十の豚児と』(集英社、1999年)、『安吾のいる風景』(春陽堂書店、2006年)などがある。
関連書籍

『安吾のいる風景』(春陽堂書店)無頼派作家・坂口安吾を父に持つ坂口綱男が、父の彷徨の足跡を辿るフォト・エッセイ。坂口安吾とゆかりのある場所を訪ね、そこで父が何を想ったのかを推測し、そのイメージを写真として収録しています。名作「桜の森の満開の下」も収録しています。

坂口安吾歴史小説コレクション第1巻『狂人遺書』(春陽堂書店)
安吾の「本当の凄さ」は歴史小説にあるー。第一巻には、「二流の人」「家康」「狂人遺書」「イノチガケ」など、全11作品を所収。(解説・七北数人)

坂口安吾歴史小説コレクション第2巻『信長』(春陽堂書店)
無頼派作家×天下のタワケモノ 坂口安吾が描く、若き日の信長の姿とは―(解説・七北数人)

坂口安吾歴史小説コレクション第3巻『真書 太閤記』(春陽堂書店)
安吾が描く、孤絶のバガボンドたち。全3巻完結編!(解説・七北数人)