明智小五郎ファミリー揃い踏みの冒険怪奇小説『吸血鬼』
江戸川乱歩(春陽堂書店)

大実業家の未亡人・畑柳倭文子(しずこ)の周囲で次々と起きる怪事件。不気味な「唇のない男」の暗躍。「吸血鬼」のように冷酷な真犯人の恐るべき奸智に、名探偵・明智小五郎が挑む──。
吸血鬼とは、墓場から蘇って生者の血を啜(すす)る死者のことである。その名を冠したタイトルは、ゴシック・ロマン調の怪奇ムードを作品に添えているだけではない。死んだと思われた人間が実は生きていたり、その逆であったりと、〈生〉と〈死〉の彼岸を挟んで事件の様相が二転三転する物語の構造を正確に伝えている。「鬼々しい心」を持つ「人外の吸血鬼」の如き真犯人もまた、死んだと見せかけて明智の裏をかき、最後の凶行に及ぶ。棺を思わせる箱(「箱」にはいかにも乱歩的な趣向が凝らされているので、本編をご確認あれ)の中で、胸から血を流しながら息絶える姿は、ドラキュラの最期さながらである。
怪奇小説風のタイトルを持つ本作は、グロテスクな面相の怪人の登場や、石膏詰めの美女の死体など猟奇的な場面もあるが、実は冒険活劇的な要素も強い。中盤、怪人は両国の国技館を舞台に明智と対決した後、気球で空に逃げ延び(以降、世間は怪人を「風船男」と呼ぶようになる)、さらに品川湾をモーターボートで疾走する。陸・海・空を舞台にした派手な逃走劇は、乱歩が当時、同時に連載していた『黄金仮面』共々「ルパンふう」を意識してのことであろう。他にも、密室殺人や死体消失トリックなどの本格推理の要素も存分に盛り込まれ、乱歩ミステリの様々な魅力が凝縮された作品になっている。
今回、明智を助けて大活躍するのが、助手の文代と小林少年である。文代は同じく同時連載をしていた『魔術師』で明智と恋仲になり、本作のラストでは遂に明智夫人となる。一方、戦後の『少年探偵団』シリーズで有名になる小林少年は、本作がデビューである(「芳雄」という下の名前は本作では登場しないが、「よっちゃん」と呼ばれている)。まだ不手際が目立つ小林少年に比べ、「和製女ヴィドック」文代の活躍ぶりは実に頼もしい。
『吸血鬼』は、明智小五郎ファミリーが形成される作品として、シリーズ中でも重要な位置に立っている。
明智を結婚させた理由について乱歩は、彼を単なるシンキング・マシンではなく情理かねそなえた人にしたかった、と述べている(桃源社版『江戸川乱歩全集』あとがき)。そういえば、国技館で怪人を取り逃した明智が、悔し紛れに「ばか野郎、ばか野郎」とわめく場面は、現在流通しているクールでダンディーなイメージとは異なり、人間臭くて微笑ましい。また、常に「ニコニコ」(この言葉は計15回登場する)している明智が、文代が賊に捕われたと聞いた時には「ニコニコ顔を引きこめ」て、いつになく余裕のない態度を示すのも印象的だ。
この小説のメインとなるヒロインは、美しき未亡人・倭文子である。彼女は同情すべき被害者であるにもかかわらず、ある種の悪女として描かれている。貧しい恋人を捨てて金持ちの畑柳に嫁ぎ、元恋人を憤死させる。夫の死後、彼女に求愛する権利をかけて二人の男が「決闘」し、敗北した側の男は自殺する。勝利者にして恋人の三谷青年を失うと、また別の男と逢瀬を重ねる──。男の恋心を裏切ることで自らのステイタスを上げる(それ故に男から復讐される)女性像は、尾崎紅葉『金色夜叉』のお宮、菊池幽芳『乳姉妹』の君江、菊池寛『真珠夫人』の瑠璃子といった明治・大正期の通俗小説のヒロインの流れを汲むものと見てよい。
ただし、倭文子は恋多き〈女〉であると同時に、茂という六歳の少年の〈母〉でもある。真犯人は茂を人質にして倭文子を凌辱し、ある時は奸計(かんけい)を用いて倭文子と茂を棺の中に閉じ込め、火葬寸前に追い込むなど、茂を利用することで倭文子を心身共に苦しめる。その度に、倭文子の〈母〉性が試されることになる。遂には、二人を生きながら氷詰めにして母子像を作ろうとするのだが、ここまで来ると、倭文子を〈女〉ではなく〈母〉として固着しようとする真犯人の──というよりは作者である乱歩の強迫観念じみたものが気になってくる。
乱歩は『吸血鬼』の中で、明智と文代の恋愛を成就させる一方で、「文」の字が文代と共通する倭文子と、もう一人の探偵役ともいうべき三谷青年との恋愛は悲劇的な形で終わらせている。明智への〈献身〉によって〈家庭〉を獲得していく文代と、欲望のままに振舞った結果として〈家庭〉を崩壊させていく倭文子とを対比する意図があったのだろうか。
本作は、乱歩文学における〈恋〉と〈結婚〉、〈女〉と〈母〉の在り方を考える上でも、興味深い作品なのだ(もっとも、その後の明智物で文代が〈母〉になることはなく、やがては明智と小林少年のホモソーシャルな関係性の中からはじき出されてしまうのだが)。
ラスト、明智と文代の結婚が示唆され、新婚の明智が当分は血なまぐさい探偵事件に手を染めないであろうことが予告される。本作でシリーズを打ち止めにする気だったのかもしれない。事実、代筆作である『蠢く触手』を除けば、乱歩は本作終了から『人間豹』開始までの約3年間、明智を小説に登場させていない。
小林少年の登場と、名探偵の結婚前夜を描いた『吸血鬼』は、明智物の一つの集大成であると同時に転換点でもあり、乱歩ファン・明智ファン必読の一作なのである。
文・乾英治郎(立教大学講師)
『吸血鬼』(春陽堂書店)江戸川乱歩・著
本のサイズ:A6判(文庫判)
発行日:2019/3/1
ISBN:978-4-394-30165-3
価格:1,089 円(税込)

この記事を書いた人
乾英治郎(いぬい・えいじろう)
神奈川県生まれ。現在、立教大学他非常勤講師(専門は日本近現代文学)。「『新青年』研究会」会員、国際芥川龍之介学会理事。
著書に『評伝永井龍男─芥川・直木賞の育ての親』(青山ライフ出版、2017・3)、共著に 松本和也編『テクスト分析入門』(ひつじ書房、2016・10)、庄司達也編『芥川龍之介ハンドブック』(鼎書房、2015・4)等がある。