現実世界にも波及した乱歩の猟奇的な想像力が展開するスキャンダラスな犯罪小説『盲獣』


「浅草レビュー界の女王」であった水木蘭子は、自身をモデルとする大理石像が出品された展覧会で、その像を執拗に撫で回す異様な人物に遭遇する──。この奇怪な場面から幕を開ける本作は、タイトルが示す通り、盲目の怪人物が、蘭子をはじめ、カフェーのマダム、若く美しい寡婦、漁村の海女といった女性たちを次々に「弄び、殺し、手と足をバラバラに斬りきざんで、その死骸を、世にも奇怪なる方法で、公衆の面前に曝しものにして見せた、不気味にもいまわしき顛末」を描いた、乱歩小説の中でも異色の問題作である。
しかし、後年乱歩自身が吐き気を催すほどの「ひどい変態もの」と述べた本作が、同時期の明智ものを中心とするいわゆる通俗長篇の中でも特異なのは、実はそこで繰り広げられる倒錯的な性愛描写や残虐な殺人描写といったエログロの側面ではなく、享楽的な殺人を繰り返す盲獣と対峙する「探偵も警官も登場しない」犯罪小説であったという点にある。しかも、小説の結末では、盲獣は断罪されるどころか、それまでの犠牲者たちの身体部位をかたどった「三つの顔、四本の手、三本の足を具えた」異形の彫刻を愛撫しながら服毒自殺を企て、「楽しく、喜ばしく、何の思い残すところもなく瞑目」するというハッピーエンドを迎えてさえいるのである。
ただし、そこで描かれる盲獣の殺人行脚のエピソードは、探偵と犯人が対峙するサスペンスや謎解きの物語としての結構を持たないがゆえに、それぞれが有機的なつながりを欠いた散漫な印象を与えもするだろう。しかしながら、そもそも乱歩小説の魅力とは、物語としての完結性を有したプロットにではなく、そこに収斂しゅうれんしきれない過剰なモチーフやディテールにあったといえるのではないだろうか。
その意味において、本作で最も印象的な場面は、盲獣が住む家の地下室にひろがる目、鼻、唇、乳房、腕、手首、膝といった女体の断片化された部位の模造品に覆われた部屋の光景であろう。それらの大小様々なオブジェは各部位ごとに寄り集められ、種々雑多な材料が剥き出しのまま用いられた異様なものであったが、それはあくまでも盲獣の持論である「触覚芸術」を具現化したものであり、視覚的な調和を度外視したものであったことに由来していた。それゆえに、当初はその部屋の様相に怯え、盲人を嫌悪していた蘭子も、徐々にその「触覚ばかりの世界」へと耽溺たんできしていくことになるのだが、この閉鎖的な空間における2人の触覚的な快楽の追求は、盲獣が徐々に蘭子を厭わしく感じるようになっていたことも相俟って、やがて蘭子自身の懇願による四肢切断へと至る。このことは、2人があくまでその触覚的な欲望によってのみ結び付いていたことからすれば当然の帰結であったともいえるが、この場面の盲獣の「号泣」には、作中で唯一といえる彼の心理的なゆらぎを垣間見ることもできるだろう。
しかし、その後、盲獣は、蘭子の切断死体を銀座、浅草、日比谷、両国といった東京の各所において、雪女郎、風船、蜘蛛娘の見世物などを利用した「吹き出したいほど残酷」な方法によって曝し、それ以降、自らの欲望のままに行われる享楽的な殺人と「切断死体陳列」とを繰り返していくことになる。きらびやかなモダン都市やリゾート空間を猟奇的な犯罪現場へと変貌させてしまうこの「死体陳列」の趣向は『一寸法師』や『蜘蛛男』などの既存の乱歩作品にもみられたものだが、興味深いのは、蘭子との情痴に耽っていた閉鎖的な空間から解放され、小説の舞台が空間的な拡がりをもっていくにもかかわらず、物語が徐々に閉塞感や倦怠感に充たされていく点であろう。
この変遷は、先述した物語の構造に由来していたとも考えられるが、それはまた、作中で「盲目の殺人淫楽者について、余りにも長々と語り過ぎたようである」「作者も飽きた。読者諸君も恐らくは飽き果てられた事だろう」と述べられるように、残虐な犯罪を語ることそれ自体に対する「作者」の疲弊を表現したものであったとも考えられる。落合教幸氏の巻末解説で詳述されるように、同時期に乱歩は多数の連載を抱える流行作家となっていたが、次第に消耗し、この『盲獣』の完結後には休筆してしまうことになる。そこには、作品の量産を求められながらも、同工異曲の作品を生み出し続けざるをえなかった作家としての自己に対して嫌気がさした面もあったであろう。盲獣によって繰り返されるパターン化した残虐な殺人に対する「作者」の倦怠には、このような同時期の乱歩自身の自作に対する嫌悪感が反映されてもいたのである。
しかしながら、この「作者」でさえも倦み疲れてしまった『盲獣』の荒唐無稽で陰惨な犯罪描写は、まさにその連載が完結した1932年3月に起きた玉の井バラバラ殺人事件という現実の猟奇事件によって、一挙にリアリティを帯びたものへと変貌してしまう。東京向島・玉の井の私娼窟の周囲を流れる通称「おはぐろどぶ」と呼ばれた側溝の中から男性の死体の一部が発見されたことに端を発する同事件は、新聞紙上で「怪事件」「猟奇」「グロ」といった過激な見出し語を用いて「探偵小説的興味」を喚起する事件としてセンセーショナルに報じられた。ここには、『盲獣』を含めた乱歩作品の中で描かれた荒唐無稽なフィクションだったはずのバラバラ殺人という猟奇的な犯罪事件とそれに狂奔するジャーナリズムの様態を、現実があとから追いかけていくような虚構と現実の錯綜した事態を見て取ることができるだろう。そこでは、「犯人は江戸川乱歩である、彼がこの事件発生によつてばつたり探偵小説の筆を断つたことはきはめて怪しい」と書かれた投書が警視庁に送られたことが報じられてさえいたのである(『読売新聞』[朝]1932・3・21)。
このように、『盲獣』は、同時期の乱歩の疲弊が色濃く滲み出た作品であるとともに、そこで描かれた猟奇的・狂気的な想像力と現実世界とが図らずも相互浸透を起こしてしまったスキャンダラスな作品であり、いまもなおその怪しい魅力は色褪せることはないのである。
文・井川 理(東京大学大学院)
『盲獣』(春陽堂書店)江戸川乱歩・著
本のサイズ:A6判(文庫判)
発行日:2019/3/1
ISBN:978-4-394-30166-0
価格:979 円(税込)

この記事を書いた人
井川 理(いがわ・おさむ)
東京都生まれ。現在、東京大学大学院総合文化研究科博士課程在学中(専門は日本近現代文学)。『新青年』研究会会員。
主な論文に、「一九三〇年前後の犯罪報道における探偵小説ジャンルの位相―犯罪ジャーナリズムにおける「江戸川乱歩」と「浜尾四郎」の表象をめぐって」(『日本文学』、2016・3)、「転位する「探偵小説家」と「読者」―江戸川乱歩『陰獣』とジャーナリズム」(『日本近代文学』、2016・11)、「乱歩とアダプテーション―加藤泰『江戸川乱歩の陰獣』におけるメディア/ジャンルの交錯」(石川巧・落合教幸・金子明雄・川崎賢子[編]『江戸川乱歩新世紀―越境する探偵小説』、ひつじ書房、2019・2)等がある。