仇敵どうしの青年たちによる闘争のサーガ『大暗室』


江戸川乱歩の『大暗室』は、仇敵どうしの青年たちによる闘争のサーガだ。
――物語は、海難事故を逃れた有明男爵の一行が漂流している場面からはじまる。男爵は熱病にかかり、親友・大曽根五郎に、妻・京子と遺産について託す。しかし、大曽根は過去に男爵と京子を争って敗れたことで、男爵に復讐する機会をうかがっていた。大曽根は、舟のなかで男爵と有明家の家扶・久留須左門を殺害する。そのあと、有明家に戻って遺言どおり京子と再婚し、遺産を手にする。京子にはすでに男爵との間に友之助という子供があったが、大曽根との間にも竜次をもうけた。同じ母をもつ2人の子供は、一方は「地上の天使」として、もう一方は「地獄の悪魔」として育つ。
ある日、死んだはずの久留須が有明邸に現れる。久留須が真実を告げたことで、友之助と竜次の闘争は開始した。大曽根は有明邸に火をつけると竜次を連れて逃亡する。火事で京子を喪った友之助は、久留須とともに両親の仇敵・大曽根家への復讐を誓う。友之助の復讐と、竜次の陰謀は複雑に絡み合っていく。やがて、友之助の率いる「五十人の降魔の軍隊」と、東京の地下に建設された帝国「大暗室」の主・竜次の「悪魔の軍隊」は、「地上世界と地帝王国との、世にも恐るべき戦闘」を繰り広げる……。
『大暗室』の大曽根竜次は、強烈な個性をもった悪役だ。
たとえば、友之助と竜次が青年となり、お互いを仇敵と気づかずに草原のうえで青空を眺めながら語り合う場面がある。自然のなかで青年たちが夢を語り合うのは青春ドラマでもおなじみの光景だが、竜次の夢はとりわけすごい。「地獄の底から生れて来た」ことを自称する竜次(中二病かよ!)は、大都会・東京の「青空にドス黒い火焔が燃えて、六百万の凡人どもがうろたえ騒ぐ景色」を実現する陰謀を語り、友之助をドン引きさせる。
竜次は、この災厄そのもののような陰謀に執拗にこだわるが、その動機は小説のなかでほとんど説明されない。いちおう父の計画を引き継いだという理由づけはあるものの、竜次の示す暴力性と狂気は、「悪魔の子」という血縁や、友之助との因縁だけでは説明しきれないものがある。なにが竜次をそこまで悪に駆り立てるのか。
竜次のキャラクターをめぐるこの違和感は、おそらく『大暗室』が、黒岩涙香『巌窟王』を意識して書かれたことに由来する。乱歩が「涙香の『巌窟王』にルパンの手法をまぜたようなものを狙った」(乱歩「あとがき」『江戸川乱歩全集 第12巻』桃源社)とふり返るように、『大暗室』に『巌窟王』の影響があることは間違いない。
涙香の『巌窟王』が、デュマ『モンテ・クリスト伯』を翻案して成立したことはよく知られるところだ。政治犯に仕立てられた主人公が脱獄して大貴族へと成り上がり、事件の関係者に復讐する物語である。主人公・団友太郎(原作のエドモン・ダンテス)は14年もの長きにわたり、地下の「地獄の底にも同じき土牢」に収監される。土牢で団友太郎は「復讐の誓ひをたて、毎日呪ふやうにしてゐ」たというからすさまじい。
しかしこのことを思い出すと、大暗室に住む「地底魔」とされる悪役・竜次のキャラクターに合点がいく。「地獄の底から這い出してきた悪魔の申し子」と表現されるように、竜次とは、地下で怨恨を蓄積させた人物が地上に出てそれを発散させる『巌窟王』のモチーフをキャラクター化した存在なのだ。「我が身をこの牢より救い出しこの仇を復さしめ給へ、それが出来ずば、弛い火を天から降らし少しづつ徐々に彼等を焼き殺したまえ」という団友太郎の呪詛は、そのまま「大東京の空を紅蓮の渦巻、邪悪の毒焔を以て蔽い尽」そうとする竜次の陰謀と重なり合う。竜次が埋蔵金を掘り当てて、それを陰謀実現のための軍資金とする設定も、巌窟島の財宝を探り当てて復讐事業の資金にあてた団友太郎と同じだ。
ただし、仇敵にのみ怨恨を発散する団友太郎とは異なり、竜次の攻撃は、東京の全市民が対象だ。さらに、竜次が東京全体に降らせようとする「邪悪の毒焔」は、団友太郎の意図するような「弛い火」ではない! 乱歩は団友太郎から復讐という動機を消去し、その暴力性と狂気を過剰に高めることで、竜次という強烈な悪役を誕生させたのだ。かくして、巌窟王・団友太郎は、「現世の魔王」・大曽根竜次へと組み替えられた。
『巌窟王』における復讐の要素は、『大暗室』では友之助が担うことになる。ところが不思議なことに、友之助はそれほど復讐に囚われているようには見えない。「一人の敵」に執着し、「そいつと戦わなければならない」ことを使命として語る友之助はむしろ、ライバル幻想ともいうべきに観念に呪われた男だ。乱歩はライバル関係が引き立つように、『巌窟王』から復讐の対象を変更している。『巌窟王』の団友太郎は自分より年上の三人に復讐するが、『大暗室』では大曽根五郎が死没するため、友之助の仇敵は同年代の竜次ただ1人なのだ。
友之助と竜次は、どちらも「変装の名手」である。これも、『巌窟王』における団友太郎と仇敵・蛭峰検事とが変装して対面する場面にインスパイアされたものだろう。『大暗室』では乱歩の嗜好を反映し、変装した友之助と竜次による騙し合いが物語の中心となっている。
乱歩は、ライバルどうしの知的闘争を書き続けた作家だ。『大暗室』の同時期には、探偵・明智小五郎と怪人二十面相による宿命の対決を描いた、少年探偵団シリーズ第1作『怪人二十面相』の連載がはじまっている。
乱歩の書くライバルたちはたいてい、闘争のなかで奇妙な友情で結ばれる。『大暗室』もそうだ。友之助は、アジトに火をつけて逃亡した竜次を地下水道に追い詰める。仇敵どうしはそこで、「親友のように語り合っている」。
「君と僕とは同じ母の腹から生まれたんだ」
「なんだか遠い昔のことを思い出すような気がするぜ」
「君と僕とは兄弟なんだね」
「兄弟なんだね」
友之助と竜次の泳ぐ水面には「ゆるやかな渦紋が描かれ、それが拡がるにしたがって、二人の敵意を象徴するかのように、互いに斬り結んではくずれていた」。水面の波紋に「岸の火焔が映って、無数の真っ赤な弧」となり、「二つの顔に、それが反射して、複雑な陰影を作」る。この場面は詩的な言葉で綴られながらも、強烈なイメージを喚起し、映画的ですらある。
『大暗室』の連載をはじめた翌年に、乱歩は、涙香訳『幽霊塔』(原作はウィリアムソン『灰色の女』)をリライトした『幽霊塔』を発表している。
『大暗室』を書いたときの乱歩は、休筆から復帰したばかりだった。『悪霊』の失敗や、『石榴ざくろ』の悪評を受けて、執筆がしばらく嫌になったのだ。物語を書き続けなければならない作家には、創作力を取り戻すときが必要になる。乱歩は幼少期に親しんだ涙香を読み直すことで、文学的想像力を回復させた。
『大暗室』とは、再び涙香に学ぼうとした乱歩によって、かくも見事に荒唐無稽に書き直された『巌窟王』なのだ。
文・柿原 和宏(早稲田大学大学院)
『大暗室』(春陽堂書店)江戸川乱歩・著
本のサイズ:A6判(文庫判)
発行日:2019/5/10
ISBN:978-4-394-30167-7
価格:1,067 円(税込)

この記事を書いた人
柿原 和宏(かきはら・かずひろ)
広島県生まれ。現在、早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程在学中(専門は日本近現代文学)。『新青年』研究会会員。
主な論文に、「江戸川乱歩ミステリの戦後的転回 ─探偵作家と警察の座談会を中心に─」(『日本文学』、2019・6)、「江戸川乱歩における戦後ミステリの復興 ─エログロをめぐるジャンルの政治学─」(石川巧・落合教幸・金子明雄・川崎賢子[編]『江戸川乱歩新世紀 ─越境する探偵小説─』ひつじ書房、2019・2)、「オールド・ファンたちの乱歩 ─小栗虫太郎をめぐる一九三五年前後の探偵小説批評から─」(『『新青年』趣味』18号、2017・10)などがある。