せきしろ

#11
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。11回目は次の2本をお届け。

うそをついたやうな昼の月がある
  大正一四年 『層雲』新年号 色声香味(三七句)
雪積もる夜のランプ
  大正一五年 『層雲』四月号 仏とわたくし(二三句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 うそをついたやうな昼の月がある
小学校3、4年生くらいだっただろうか、作文を書く授業があった。
書いたものをみんなの前で発表し合ったのか、それとも文集など何かの形で見たのかは覚えていないが、ひとりの同級生の作文に私は衝撃を受けた。
それは家族でスキーに行った時のことを書いた作文で、同級生がスキー中に転んでしまうのだが、それを見た彼の父親が慌ててそばに来るという内容だった。その時の父親の様子を「父がまるでハエのように来た」と表現していた。急いでやって来た父親の動きをハエにたとえたのだ。
確かにハエは速い。素早くもあり小回りもきく。たとえとしては間違っていない。だからと言ってハエにたとえるというのはどうなんだろうと子どもながらに思い、ならば何が良いのだろうと考えて、車とか飛行機とか鳥とかそういったものを考えた。それの方が良いに決まっていると思った。
しかしだんだんとハエのたとえが羨ましくなってきた。先生も「なんだ、ハエって!」と言いながらも楽しそうだった。こんなたとえを自分では思いつかないし、おもしろさを感じ始めた。それからというもの私はハエのたとえのようなものを意識して考えるようになった。
私は今こうやって文章を書く仕事をしている。執筆中にいまでも思い出すのがハエのたとえである。あのたとえのおかげで私はありきたりな表現を避けるようになったし、オリジナリティを求めるようになった。そう考えると自分の手本になっているのだ。もしかしたらあのたとえがなかったら今の私はないかもしれないとすら思う。
あとはハエのように素早く仕事ができるようになれば完璧だ。


 雪積もる夜のランプ
私が子どもの頃にはコンビニがなかった。厳密には世の中にコンビニは存在していたが、私が住んでいた田舎にはなかったのだ。スーパーが一軒と、あとは個人商店ばかりで、遅くても20時には閉店し、おまけに日曜は休みの店も多かった。
そんな町であったから夜の明かりは限られていて、街灯以外で夜を照らしていたのは自動販売機くらいだった。
ジュースはもちろん、たばこやお酒の自動販売機なんかもある中、小さな電器店の前には乾電池の自動販売機が設置されていた。幼心にそれがなんだか「科学」や「ロボット」のようでかっこ良く見えた。たしかナショナルの赤いマンガン電池か黒いマンガン電池が並んでいて、単1電池から単5電池まで売っていたはずだ。当時私が持っていたラジコンに必要だった四角い電池は並んでいなかったものの、親が運転する車の窓から夜に光っているの乾電池の自動販売機を見るたび、いつか玩具の乾電池が必要になったらここで買えば良いんだと安心し、このことはしっかりと覚えておこうと決めたものだ。結局一度も乾電池の自動販売機を使うことはなかったのだが。
上京してコンビニを知った。帰省したらいつの間にかコンビニができていた。急速に明るいことに慣れていき、当たり前になって、乾電池の自動販売機の出番はほぼなくなった。
それでも夜道を歩いている時に自動販売機が光っていると、乾電池の自動販売機が何よりも光っていたことを思い出す。
特に冬の夜。
無音で積もっていく雪の中で光っている姿は孤独であり、美しくもあり、そして頼もしくもあるのだ。

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』