せきしろ

#14
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。14回目は次の2本をお届け。

春が来たと大きな新聞広告
  大正一五年 『層雲』五月号 虚空実相(三一句)
豆を煮つめる自分の一日だつた
  大正一四年 『層雲』八月号 村の呉服屋(二二句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 春が来たと大きな新聞広告
20代くらいから季節を意識するようになって、その度合いは30代でマックスとなり、以降はその状態をキープしている。
夏休みだとか冬休みだとか卒業式だとか、昔から季節を知る機会はあったが、どれも機械的で無機質なものであった。やがて時とともにその頃見過ごしてきたものから季節を知るようになる。たとえば商店街。
春。商店街には淡い色が増える。「花」や「桜」の文字が目立つようになる。生花店は華やかになり始め、これから芽を出す種がいくつも並んでいる。学校指定のジャージや靴を扱っているとの張り紙の文字が春を一層際立たせている。
夏。強い日差しが商店街の輪郭をくっきりと映し出す。涼しげな色が増える。飲食店の軒先に「氷」の文字。冷やし中華の案内。日傘の色が行き交う。電器店の店頭のテレビには高校野球が映っていて、8回あたりから見物客が増えてくる。どこからか風鈴音が聞こえる。
秋。商店街の上に広がる空は高い。商店街は落ち着いた色になっていく。モミジの葉を模したディスプレイが秋風に揺れ、「味覚」の文字が目につくようになる。お惣菜屋さんのメニューは充実し、食欲を刺激する。日が沈むのが早くなり、夏よりも早く明りが灯る。その光は暖かい色をしていて、いつも何かを思い出させる。
冬。イルミネーションに彩られる商店街。その色は条件反射で寒さを思い出させる色。書店には赤本の朱色が並び、焦燥感に襲われる。あっという間に夜になる商店街は、灯りのついた店舗がそれぞれ別世界のように切り取られている。暖房器具のポスターが浮かび上がっている。昔からずっとあるCDショップからクリスマスソングが流れている。
これを書いている間にも季節は変化していることだろう。


 豆を煮つめる自分の一日だつた
道で困っている人を助けたとする。後日その助けた人が「お礼をしたいので連絡してください」と呼び掛けていることを新聞やニュースなどで知る。こんな時、どう行動するのがベストなのか。
考えられる選択肢は2つである。
①名乗りでる
②名乗りでない
この2通りとなるわけだが、①はなかなか難しい。自ら電話をして「もしもし、先日助けた者ですが」などと言うのは相当な恥ずかしさを伴う。それは「私は親切です」とアピールしているようなものであり、時には図々しさと強欲さが見え隠れすらするから、なかなかできるものではない。そのため必然的に②を選ぶことになる。
一方自分や自分の家族などが助けられたケースを想像してみると、一言でも良いから見知らぬ相手にお礼を伝えたくなるし、できるなら名乗り出てもらいたいと思う。ならば①を選択すべきと考えるもやはり恥ずかしくなる。
そこで①を選択しつつ、自ら直接アピールすることを避ける形を探すことになり、それには第三者の存在が必要となる。私が人助けをした時の目撃者がいて、かつその人が私の特徴を克明に伝えることによりそこから私だと判明する形が美しい。それが難しければ友人に「助けた人を知っていると連絡してくれないか」とお願いする手もある。それも難しければ自ら「この前、人助けしてさ」と様々な場所でさりげなく話し、その情報が広がるのを待つしかない。
そんなことを考えていただけで一日が終わる。

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』