せきしろ

#15
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。15回目は次の2本をお届け。

蟻が出ぬやうになつた蟻の穴
  大正一四年 『層雲』二月号 真実不虚(二五句)
足のうら洗へば白くなる
  大正一四年 『層雲』一一月号 足のうら(三六句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 

 蟻が出ぬやうになつた蟻の穴
もう使われていないものを見てしまいがちだ。遺跡や城跡はもちろんのこと、廃墟の前で佇んでしまう。
もっと身近なところにももう使われてないものはある。
たとえば閉店したお店。いつも誰かがいて賑やかだったはずが、突然の閉店で瞬時に日常が消える。中を覗くと乱雑な店内がやけに古ぼけて見える。ただただ『貸店舗』の看板だけが新しい。私はそれらをしばらく見てしまう。
ガソリンスタンド跡。コンクリートの床の所々から背の高い雑草が生え、ガソリンスタンドの無機質感を消している。夏の日差しが似合う気がするのはなぜだろう、なんてことをしばし考えてしまう。
スーパーやショッピングセンターにある何もないスペースも好きだ。昔は何かテナントが入っていたのだろうが、今は何もなく新しくない床があるだけ。その静けさが良い。たまに『憩いのスペース』などの名称で椅子が数脚置かれている場合もあるが、静けさは変わらない。
さらに身近なところでいうと、捨てられている本。アパートのゴミ集積場に古紙として紐で括られた本もまた私の足を止めるのだ。特に参考書や資格の本は感慨深い。受験はうまくいったのだろうか、資格は無事取れたのだろうか、この時期に捨ててあるということは諦めてしまったのか、などと思いを巡らせる。異国の人が学ぶための日本語テキストや、自己啓発の本、宴会芸を習得するための本も私に様々なことを考えさせる。
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」とまではいかないまでも、確かにそこには生活があったことを感じる。それは人間のものだけではなく、使われていない犬小屋や古ぼけた巣箱も同じであり、私は今日も足を止めるのだ。


 足のうら洗へば白くなる
いつだったか知人と歩いていた時のことだ。
「自動販売機の上は汚れている」
そう知人が言ったので私は驚いた。
確かにその通りであるし、私はその光景を何度か見たことがあるはずなのに、そのことを言葉として聞いて驚いたのだ。
たとえば自動販売機をテーマに作品を作るとする。俳句でも短歌でも自動販売機に関する大喜利の回答でもなんでも良い。
その時私は自動販売機のどこに注目するのかを考える。自動販売機のメーカー、色、売られている商品、「あたたか〜い」や「つめた〜い」の表示、当たり付きかどうか等を思い浮かべる。
そこからさらに派生して、ビジネスホテルの自動販売機のビールは高かったこととか、お札が何度も戻ってきたことやおつりがすべて10円玉で出てきたことなどの経験を思い返したりもする。小銭を落としたことを思い出したのなら自動販売機の下のことを考えるだろう。
しかし自動販売機の上のことを考えるという視点は私になかった。そもそも自動販売機の上が汚れているということは当然のことであろうし、そこは私には不必要な場所であり、多くの人もそう思うに違いないから改めて触れることではない。それなのに知人は言語化したのだ。それはなかなか聞ける言葉ではなく、その瞬間私はハッとし、心を掴まれ、興味が湧きまくり、愛おしくすらなった。知人の感性とセンスは私の凝り固まっていた視界を広げてくれたのだ。
まったく共感できない人もいるだろうが、それは何も悪くないことで、私は私で今日も「生花店の床はいつも湿っているな」などと思っている。

プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
<尾崎放哉 関連書籍>

『句集(放哉文庫)』

『随筆・書簡(放哉文庫)』

『放哉評伝(放哉文庫)』