せきしろ
#17
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。17回目は次の2本をお届け。
ほのかなる草花の香ひを嗅ぎ出さうとする
大正一三年 『層雲』一〇月号 御堂(二八句)
海がよく凪いで居る村の呉服屋
大正一四年 『層雲』八月号 村の呉服屋(二二句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 大正一三年 『層雲』一〇月号 御堂(二八句)
海がよく凪いで居る村の呉服屋
大正一四年 『層雲』八月号 村の呉服屋(二二句)
ほのかなる草花の香ひを嗅ぎ出さうとする
近所にある高校は大きめの道路沿いに校舎があり、校庭は見えないように高いフェンスとネットで囲まれていて、それに沿うように木が植えられている。その中に桜の木もあって花びらが午後の歩道にも散っていた。
桜の下に年配の男性3人が校舎に背を向ける形で座っていた。年配の男性と言ったが、もしかしたら年下かもしれない。この年齢になるとその辺りはかなり曖昧になる。ただ、男性たちが着ている服や帽子のデザインから察するに自分より数年先輩の気もする。
3人はパチンコ店の開店を待っているようにも見えたが、どうやら花見をしているようだった。特に会話はなく、たった一種類のおつまみを広げてアルコール度数高めの缶チューハイを飲んでいた。3人ともどこか遠くを見ているからかなり酔っているようにも見えた。
3人がいるのは車通りがかなりある道路沿いであり、バスも頻繁に走っている。もちろん人通りもあって、自転車も通る。そんなアスファルトの歩道だ。花見をするにはあまりにも落ち着かない場所である。少し歩けば花見客で賑わう公園もあるというのに、なぜこんなところで花見をしているのか不思議になった。
興味本位で少し離れたところから3人の様子を窺っていると、私はあることに気づいた。高校から部活の音、特に野球部が練習する音が聞こえるのだ。ボールを打つ音やはつらつとした声も聞こえる。私はその音がする方を見ようとした。しかしフェンスとネットと木々で見えない。
その時私はあることに気づきハッとした。
ああ、そうか。あの3人は思い出に浸りながら花見をしているのだ。高校の懐かしい音を聞きながらお酒を飲んでいるのだ。校庭を無理矢理覗こうとするようなマナー違反などせず座ってただただ静かに。
私ももうすぐ仲間入りする自信がある。
海がよく凪いで居る村の呉服屋
1990年代に古着ブームがあった。当時の私は新品の服を買うお金はなく、古着の存在は大変助かった。大きな間違いを犯さない限りそれなりのアメカジにもなったし、好きで聴いていた音楽には古着の方がしっくりきた。
その頃私は下北沢に住んでいて、暇があれば古着屋に行った。初めて古着を買ったのは『餃子の王将』の近くにあった『原宿シカゴ』という店だ。下北沢には他にもよく行っていた店が何軒かあって、時には高円寺辺りにも足を伸ばしたりもした。
やがて珍しい服を探すようになった。それはビンテージ価値があるものではなく、個人的にロゴやイラストが珍しいと思うもので、色分けされたTシャツがずらりと掛けられているコーナーを端から端まで一枚ずつ見て探す時間が楽しかった。
最近また古着ブームらしい。確かに古着屋が増えている。井の頭公園に行く途中にも何軒かオープンしていて、先日懐かしさもあり久々に店に入ってみると古着特有の匂いが90年代を思い出させた。私が古着を買っていた頃に新品で売っていた服が今の古着の主流になっていて、その色合いやデザインからもまた90年代を思い出した。
せっせと古着を見ていると、私を店員だと勘違いした人が話しかけてきた。私もこの手のミスをしたことがあるので「店員じゃないんですよ」と言われた時の恥ずかしさやばつの悪さはよくわかる。そのような気持ちにさせたくないなと思い、「すみません、バイトになったばかりで、なにもわからないんですよ」と新入りのふりをしようと思ったが、咄嗟にそんなことができるような性格ではないから、「店員じゃないんですよ」と正直に伝えた。案の定、相手から羞恥心が滲み出ているのを感じたので、私はそっと店を出た。
別の古着屋に移動し、鏡の前でアウターを試着して驚いた。今の私の年齢で古着を着るとただの同じ服をずっと着ている人でしかなく、文字通り「古着」になっていたのだ。そこにおしゃれ要素はゼロだったのである。
古着は若者の特権なのだと悟った。その日見た井の頭公園の池は凪いでいた。
『放哉の本を読まずに孤独』(春陽堂書店)せきしろ・著
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)
┃プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
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