せきしろ
#19
想像から物語を展開する「妄想文学の鬼才」として、たとえる技術や発想力に定評のあるせきしろさん。この連載ではせきしろさんが、尾崎放哉の自由律俳句を毎回ピックアップし、その俳句から着想を得たエッセイを書き綴っていく(隔週更新)。19回目は次の2本をお届け。
蜜柑を焼いて喰ふ小供と二人で居る
大正一四年 『層雲』三月号 独座三昧(三七句)
夜明けが早い浜で顔を合す
大正一四年 『層雲』一〇月号 人間好時節(一三句)
放哉の句から生まれる新たな物語。あなたなら何を想像しますか? 大正一四年 『層雲』三月号 独座三昧(三七句)
夜明けが早い浜で顔を合す
大正一四年 『層雲』一〇月号 人間好時節(一三句)
蜜柑を焼いて喰ふ小供と二人で居る
久しぶりの再会をし、しばし会話を交わそうとするのだが、ここでひとつ問題が浮上する。「久しぶりに会った人と話す場合、昔は敬語で話していたのか、それともタメ語だったか迷ってしまう」問題だ。
相手が仕事関係の人であったら敬語でほぼ間違いない。ただ100%でないのは、同世代の編集者と仲良くなってタメ語の関係になった事例もあるからだ。そういう関係性にも関わらず敬語で話したら、「あれ? 昔はタメ語だったのに敬語になってる」と相手に距離を感じさせてしまうことになるわけで、それはなんだか申し訳ない。逆に自分がそうされたら確実に複雑な気持ちになる。
とはいえいきなりタメ語で話すのも「この人に対しては敬語だった!」と途中で気づくパターンもあり、そのミスは取り返しがきかない。そこから慌てて敬語に直しても違和感しかなく、相手に嫌な思いをさせるか人によっては怒らせてしまう可能性もある。
ならば相手の出方を窺いながら決めるのがベストではないかと考え、相手がタメ語ならタメ語、相手が敬語なら敬語で話す方法を考えてみたものの、相手も同じような方法で挑んできていた場合探り合いが続くだけなのでやめた。結局正解は導き出せていない。
似たような問題にキャラ問題がある。たとえば中学生の時はお調子者キャラであったのに、いろいろと恥を知った高校生の時は静かなキャラだったとしよう。やがて大人になって同級生に会った時に、「この人の前だとどっちのキャラだっけ?」と迷ってしまうのだ。一か八かお調子者キャラでいったとしてそれが間違っていた場合は大惨事である。
そんな私であるから、子どもに対して敬語で話さない人や初対面なのに友達のように話しかけてくる店員などが羨ましくなる時があるのだ。
夜明けが早い浜で顔を合す
道を歩いていると不意に話しかけられることがある。「せきしろさん」と私の名前を呼ばれて、相手の顔と名前が一致するまでの間が多少あって「ああ!」となり、「元気でしたか?」「はい」と会話が始まる。やがてキリの良さそうなところで「ではまた」と挨拶をして別れる。
私は時折「今度飲みに行きましょう」と誘うことがある。私の「今度飲みに行きましょう」は本気の時もあるのに社交辞令だと思われてしまうことがほとんどである。これは仕方ないことで、「よく聞いてください。今から言うことは社交辞令ではないです。今度飲みに行きましょう」などと枕詞を付けると相手に恐怖を与えてしまう可能性があるので、「今度飲みに行きましょう」と言って「良いですね、是非」と言われて終わるのが妥当だ。たまに「絶対ですよ!」と念をおされることもあるが、これも私の「今度飲みに行きましょう」が社交辞令だと思われている証拠である。
最も避けたいのは「この人、なぜ誘ってくるのだろう? もしかして何か裏でもあるのでは?」と警戒されてしまうことである。それを考えると、社交辞令だと思われた方が良い気がする。
ところで、私は不意に話しかけられてしまうとしばらく他のことができなくなることが多々ある。自分がうまく会話できていたかどうかが気になって仕方なくなるのである。話しかけられることがわかっていたのなら会話を準備する時間はあるが、そうではないのだからすべてアドリブとなる。それでもなんとか会話して別れ、その後「あの時うまく話せていたのだろうか?」「聞かなくて良いことを聞いてしまったのではないか?」「あの言葉は別の意味にとられてしまったのではないか?」「つまらない人だと思われたのではないか?」などと考えてしまう。そのため会話を最初から克明に思い出して、時には紙に書きだして大丈夫だったかどうかを確認し、長い時は数時間費やすことになるのだ。
『放哉の本を読まずに孤独』(春陽堂書店)せきしろ・著
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)
あるひとつの俳句から生まれる新しい物語──。
妄想文学の鬼才が孤高の俳人・尾崎放哉の自由律俳句から着想を得た散文と俳句。
絶妙のゆるさ、あるようなないような緊張感。そのふたつを繋ぎ止めるリアリティ。これは、エッセイ、写真、俳句による三位一体の新ジャンルだ。
──金原瑞人(翻訳家)
┃プロフィール
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
せきしろ
1970年、北海道生まれ。A型。北海道北見北斗高校卒。作家、俳人。主な著書に『去年ルノアールで』『海辺の週刊大衆』『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』『たとえる技術』『その落とし物は誰かの形見かもしれない』など。また又吉直樹との共著に『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』『蕎麦湯が来ない』などがある。
公式サイト:https://www.sekishiro.net/
Twitter:https://twitter.com/sekishiro
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