南條 竹則
第33回後編 三蛇虎骨酒
 金子光晴が戦前に滞在したバトパハ(バトゥ・パハ)はマレーシアの西海岸にあり、「ゴムプランターと鉄山の拠点」で、多くの日本人が集まっていた。
 彼はこの町の邦人クラブで、地元の小学校の先生をしているHという若者と知り合い、夜になると一緒に中国人街へ遊びに出かけた。
『西ひがし』に描かれている一番の御馳走は、この「先生」と、彼の行きつけだという店に行った時の晩餐である。
「これ、一口飲んでみませんか。ちょっとつよすぎるかな」
 先生は、錫の瓶子からついだ琥珀こはく色の酒を、僕にも注いだ。ちょっと口をつけただけで、僕の舌は、むしろ火脹ひぶくれになりそうな強烈な火の粉が飛んで、口中にひろがるようであった。
「紹興酒もありますけど……」
 僕は、掌で押し止める恰好をしてことわり、
「どういう酒なのです?」
 とたずねると、
「三蛇虎骨酒です。フランスのアプサンや、ロシアのウオツカと、どちらかというつよい奴です。鍛冶屋のふいごにかけて真赤になった鉄棒が喉を通ってゆく気持で、これをのんでいるあいだは、世のなかがどうであっても、誰がなんと言って来ようと、問題ではありません」
 料理は、田鶏デンチイ(蛙)や、大蜥蜴とかげの白い肉、それに生野菜のサラダに、椰子の新芽など、めずらしいものがでた。椰子の葉の芽は歯あたりがよく、丁度、たけのこのような味と、精液のような風味があった。その香味がひりひりとして、いつまでも口中にのこった。
 獣肉のなかでは、針鼠にしくものはないが、それは貴重品で、じぶんも食べたことがないと、先生がその他のいろいろな悪物喰いを紹介した。(『西ひがし』中公文庫 91-92頁)
 ここに記された料理はいかにも東南アジアらしく、わたしなどは食欲をそそられる。蛙は旨いし、大蜥蜴は食べたことがないけれど、きっとわにのような味だろう。サラダもこの地方ならば、香りの良い草がふんだんに入っていそうだ。
 だが、三蛇虎骨酒をかんするというのは、異邦の僻地へきちにくすぶる男の屈託がこごっているようで、話としては面白いが、やや現実離れしている。
 三蛇酒ならわたしも飲んだが、薬酒である。健康補腎のために服するもので、酔うための酒ではない。味もあまり良いとは言えないし、度数が高く、燗して飲むものではない。虎骨の成分を加えた三蛇虎骨酒についても、同じことが言えるだろう。
 ところが、じつは『どくろ杯』にもこんな記述があるのだ。
 宴が果てて、上海のメーン・ストリートの太馬路の大通りを、黄軳車をならべて、徐家シュカワイの方へむかう路々、いまのんだ酒で、喰った料理を、車夫の頭からきちらした。三蛇虎骨酒という、虎の骨を入れた強烈な蛇酒をしたたかあおって乱酔してのことであった。(『どくろ杯』中公文庫 162頁)
 ここにいう「宴」とは、内山書店の内山完造が小説家・前田まえだ河広一郎こうひろいちろうを歓迎するために開いた宴会だった。魯迅や郁達夫も出席した。
 僻地で世をねる変わり者が薬酒を敢えて鯨飲するというのは、まだ想像できるが、上海の中国通が催した宴席で、そんな酒を出すはずはない。食後に出て来たということはあり得るにしても、「したたかあおる」とは考えられない。

 じつは、金子光晴はべつの場所でも三蛇虎骨酒のことを書いている。
 中公文庫の『マレーの感傷』は復刻ではなく、文庫編集部が独自に編んだ文集のようだが、これに収められた初出誌不詳の「香港・広東・マカオ」という文章に、以下のくだりがある。

 なまもの悪食は広東の風習だ。鼠の裸子や、白いやもりを湯がいて食うのも広東人だ。酒店の店先をみると、大きなガラスの壺に、可成りふとい蛇を漬けておいてある。斑紋がちがうのでよくみると、三匹の蛇がからみあっているのだ。赤紙のはりちがったふだの字には、「三蛇虎骨酒」とあるから、虎の骨も入っているわけだ。ほんの通りすぎにすぎない広東の旅なので、広東の生活に喰入るひまがなかったが、それだけの悪食をする広東人の広東は、永く住んで観察すれば、支那のどの街よりも面白い事が多いのではないかと察しられる。(前掲書 47頁)
 想像するに、この時の印象が詩人の心に強く刻み込まれ、酒席の記憶と渾然こんぜんとなったのではあるまいか。あるいは文学的効果を狙って、わざと小道具にこの酒を用いたのではなかろうか。
 こんな風に重箱の隅をせせるのは野暮の骨頂だが、後世、文学を通じて食文化を研究する人がいるかもしれないから、贅言ぜいげんを連ねる次第である。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)