南條 竹則
第35回 酒虫と消麺虫 後編
 『宣室志』に載っている似たような話は「消麺虫しょうめんちゅう」という。
 岩波文庫の『唐宋伝奇集』下(今村与志雄訳)に入っていて、麺類の好きなわたしは若い頃この文庫本を読んだ時、何と奇天烈きてれつな内容だろうと思った。
 粗筋をいうと、こんな具合である。

 呉郡(現在の蘇州)に陸顒りくぎょうという人が住んでいた。家は代々科挙の試験に受かった読書人で、彼も試験を受けるため長安に上京し、太学たいがくと呼ばれる学校にいた。
 すると胡人(西域の人)が数人、酒や肴を持って学校に訪ねて来た。かれらは中華の文物を学びに来ているが、顒の風采が堂々としていかにも学者らしいので、おつきあいしたいという。
 それから時々互いに宴を開いたが、胡人たちが贈り物をしたりするので、何か魂胆がありはせぬかと顒は疑い、郊外に引っ越した。だが、胡人たちはそこへも訪ねて来て、「あなたは、麺がお好きですか?」と問うた。
 じつは顒は幼い時から麵が好物だったが、たくさん食べれば食べるほど身体がますます痩せるのだった。
「そうです」と答えると、胡人は言った。

「麵を食べるのは、あなたではないのです。あなたの腹の中にいる一匹の虫です。これから、薬を一粒、あなたにさしあげたいと思います。お飲みになれば、虫を吐き出すでしょう。そうしたら、わたしどもは、高額でお取りかえします。よろしいですか?」(前掲書168頁)
 顒が承知して薬を飲むと、しばらくたって虫を一匹吐き出した。長さは二寸ばかり。色が青く、形は蛙に似ていた。
 胡人が言った。
「この虫の名は、消麵虫しょうめんちゅうといいまして、まったく天下に稀な宝物です」(同168頁)
 胡人によれば──
「そもそも、この虫は、天地中和の気をけて生じました。だから麺をよく食うのです。というのは、麦は、秋から植えはじめて、翌年の夏季になって実ができます。天地四季のすべての気を受けておりますから、その味を好むのです。麺を食べさせてごらんなさい。それが分ります」
 顒は、すぐさま、麺を一斗あまりその前に持ってこさせると、虫は食べはじめて、立ちどころに食いつくしてしまった。(同169頁)
 虫は不思議な力を持っており、これを用いると人間界はもとより仙界の秘宝まで手に入る。胡人は顒に厚く礼をしたので、顒は金持ちになる。
 西域との交流が盛んになった唐代には、いわゆる胡人と宝物をめぐる説話が広まった。この種の話は「胡人採宝譚」と呼ばれ、石田幹之助が『長安の春』に詳しく論じている。「消麺虫」もこの類型に属するものだ。
 わたしが『唐宋伝奇集』を初めて読んだ時、すぐに思い浮かべたのは落語だった。「蕎麦の羽織」「そば清」「蛇含草」などと呼ばれる話だ。
 ある男が山中で、うわばみが人を吞むところを目撃する。蟒がそばに生えている草を舐めると、ふくらんだ腹がスッとへこんだ。
 なるほど、あれは良く効く消化剤なのだと思って、男はその草を持ち帰る。
 そのあと蕎麦の大食いをして、パンパンに張った腹を楽にしようと、例の草を舐めてみる。ところが、それは消化剤でなく人間を溶かす草だったので、羽織を着た蕎麦だけがあとに残った。
 この話の男は、蛇含草でなく消麺虫を服するべきだったのだ、とわたしは思った。「麺」とはてっきり蕎麦やうどんのようなヌードルだと決めつけていたからである。
 だが、御存知のように、中国語の「麺」は小麦粉の生地及びそれで作る各種の食品をいい、必ずしも長いヌードル(麺条ミエン・ティアオ)とは限らない。今、本文を読み返すと、どうもそれとは違うような気がする。
 一方、話の主人公陸顒りくぎょうが呉郡(蘇州)の人だということにも、今初めて気がついた。
 じつは、蘇州は麺条の美味しいところだ。以前、衛星放送の番組で「朱鴻興麺館」という店を取材したこともあるが、この街の排骨麺、爆鱔タウナギ麺など、わたしは大好きである。
 不思議な暗合だけれども──まさかネ。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)