南條 竹則
第36回後編 緑雨とサルボウ
 斎藤緑雨の食べ物話は、毒舌家の文章だけに、どこそこの何々が美味いなどという単純な話ではなく、風俗の変遷すなわち堕落を嘆ずるか、さもなくば物知らずの人間や半可通、知ったかぶりを揶揄やゆするものがほとんどだ。
 けれども、その筆には案外毒がなく、滑稽にして愉快なものが多い。
 物を知らない人の話を少し挙げてみよう──
 有合なれどもと、蜆汁を出したるに、がりがりと殻ぐるみ嚙砕きて、これは国には御坐りませぬ。(「おぼえ帳」『あられ酒』岩波文庫 126頁)
 支那料理知らぬ人の偕楽園に行きて、問ふは恥ならずとをんなにむかひ、菜単とは何ぞ、豚か鷄か。(同107-108頁)
 次の話は、おのぼりさんらしき客も滑稽だが、そんな相手に符牒を連発する店員の気の利かなさも批判している。
 月見芋とはいかなるものぞ、あたり芋なり、客解せず。いかにして製したるぞ、ぎよくをおとしたるなり、客猶解せず。いかにしてくらふべきぞ、紫をかくるなり、客猶々解せず。こは予が霹靂車に出したるものなれども、まことは深川の藪蕎麦にて見たるなり。客の都人みやこびとならぬは勿論なれども、女も亦帳場の教通りを守りたる新参の者なりし。(同106-107頁)
 これは若い人には解説を要するだろう。「あたり芋」は「すり芋」すなわちとろろだ。「する」という言葉を忌んだのだ。「ぎよく」「紫」は卵と醬油である。
 知ったかぶりについては、こういうのがある。
 金沢のじぶ煮は鴨肉に小麦粉をまぶして煮るのが特徴だが──
 話食ひといはるる男の、急にジブの望ましく、理屈は相鴨あひも同じことと、態々人誘ふて鳥安に行きしに、とんと其名を忘れたり。あのそれ何だ、溫飩粉を溶いて来るのだと手附にていふを、女中のをかしがりてジブで御座りますかといへば、それさ、お前は記憶おぼえがいい。(「ひかへ帳」『あられ酒』岩波文庫 180頁)
「鳥安」は今も東京にある相鴨(合鴨)料理の老舗である。
 それから、こういうのもある──
 汁は蘿蔔だいこん、煮附けは鹿角菜ひじき、このほかに望なしと出来星紳士の或会席茶屋に来て誂へけるに、あるじかしこまりて調進し、さなきだに此家ここは廉ならぬ魚鳥の五倍を請求しけり、紳士頗るひるみたれどもなく外に出でて、人にむかひ、君は未彼家あすこ鹿角菜ひじきを知るまい、あれを喰はんやうでは本物でない。(「おぼえ帳」126頁)
 緑雨本人についても、ちょっと面白い話を幸田露伴が「故斎藤緑雨君」の中で回想している。
 それから随分をかしかつた事は、私が向島の奥に居た時でしたツけ、齊藤君は本所に居られた時分でした。色々食物の好き嫌ひの話になつて、貝類の話になつた時、蠣が旨いとか、赤貝が旨いとか、馬鹿貝が旨いとか云ふ話をした時に、サルボウと云う貝の噂になつた。その時私がサルボウも旨い物である、赤貝の弟分といつたやうなものだが、サルボウの味はまた外の貝に無い味がある、特に煮て食ふ段になつちやあ赤貝だつて及ばないところがある、それが解らないやうな奴は未だ論ずるに足らぬとまで、少し図に乗つた気味で言つた。さうした所が、その後或日齊藤君が大きな番臺にサルボウを一杯むかせて持つて来て、君が好きだつて言つたからわざわざむかせて持つて来たよ、といふのです。サルボウを番臺一杯といふんですから、これにはちつと驚いたが、併し実際まづい物でもないし、自分が嫌ひな物でもないのですから、左様かい、それあ有難いツてんで、同君の親切を喜んで喰つた事でしたが、一寸さう云ふ変つた事を為る人でした。ハヽハヽ。(『露伴全集』別巻上 岩波書店 92頁)
「金剛杵」に「蝦と車渠しやこ赤貝とさるばうを分つ能はざる今の批評家は」云々(『あられ酒』岩波文庫66頁)の文句があるが、「金剛杵」が発表されたのは明治二十九年。その時緑雨はもう本所を引き払っているから、露伴が語る逸話よりもあとの文章だ。あるいは、露伴との一件でサルボウについて智恵がついたのかもしれない。
 この貝について、思い出すことがある。
 中華料理が好きな人は御存知だろうが、新宿区役所通りの近くに「上海小吃」という店がある。昔、友人たちとそこへ行った時、女主人の勧める料理をとった。
 出て来たのを見ると、小ぶりの赤貝である。それもなまで、殻を一枚だけ取り去り、もう一枚に身が入っている。赤貝の血は赤いから、まさに血みどろな感じだ。黒酢がついて来て、これをつけて食べろという。
 中華料理で火を通さないとは何かの間違いのようで不安になり、箸が進まなかった。
 ところが、その後上海料理の本を見ていたら、この一品が載っている。中国で貝を生食する珍しい例だと知った。赤貝でなくサルボウだったこともわかった。もう一度食べて味をたしかめてみたいが、いまだにその機会を得ない。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)