南條 竹則
第37回 毒草の味 前編

 幸田露伴に「野道」という短篇がある。
 閑人ひまじんたちの春の散策を語る、何とものどかな話だ。
 語り手の家に、ある日先輩の某氏から手紙が来る。お仲間と春の郊外をぶらぶら歩きして楽しみたい。その節、貴君の家をお尋ねして誘うから、一緒に行くなら「彼物かのもの二三枚を御忘れないやうに」という文面だった。
彼物かのもの」というのは焼味噌だ。作り方はこの先輩が教えてくれた。語り手はさっそくい香りのする杉板を調達し、味噌を塗って少し焦がして、支度をした。
 翌日、三人の先輩が彼の家を訪れる。
 いづれも自分の親としてい年輩の人々で、其うちの一人は手製の東坡巾とうばきんといつたやうなものをかぶって、鼠紬ねずみつむぎ道行振みちゆきぶりて居るといふ打扮いでたちだから、誰が見ても漢詩の一つも作る人である。(『露伴全集』第四巻 438-439頁)
 他の二人も老人らしい打扮だが、一人は「濃い褐色の土耳古トルコ帽子」をかぶり、もう一人は「鍔無つばなしの平たい毛織けおり帽子に、ねずみ甲斐絹かひきのパッチで尻端折しりはしより、薄いノメリの駒下駄こまげた穿きといふ姿なり」をしている。
 一同はちょっと茶談さだんをしたあと、田舎道を市川の方へ歩き始める。語り手が露伴なら、家は向島にあったのだ。明治の半ばの東京郊外である。「菜な花畠はなばたけむぎの畠、そらまめの花、田境たざかひはんの木をめる遠霞とほがすみ」──気持ちの良い春景色がひろがっている。
 そのうち先輩たちは土手に腰を下ろして休み、瓢簞ひょうたんに入れた酒を飲み始める。
 東坡巾先生は真鍮の刀を取り出し、それを持って堤下どてしたから何か小さい球根を掘って来た。球根は野蒜のびるで、持参した焼味噌をつけて食べると、ちょっと面白い酒の肴になった。
 すると、今度は土耳古帽氏が、田のくろへ行って何かった。もっさりした小さな草で──
 自分はいきなり味噌をつけてべたが、すこしくあまいが褒められないものだつた。何です、これは、と変な顔をして自分が問ふと、鼠股引氏が、なづなさ、ペンペンぐさも君は御存知ごぞんじないのかエ、と意地の悪い云ひ方をした。エ、ペンペン草で一盃飲まされたのですか、と自分が思はず呆れて不興ふきようして言ふと、いサ、かゆぢやあ一番いきな色を見せるといふ憎くもないものだから、と股引氏は愈々人をちやにしてゐる。(同441頁)
 こんな風に、先輩たちは次々と野草を採ってくる。
 ハコベのわかいの、忍冬すいかずらの花、蒲公英たんぽぽふきの遅れ出の芽──味は甘いのもあり、苦いのもあり、可も不可もないものもある。
 さて、語り手も真似をしようと思うが──
 困つたのは自分が何か採らうと思つても自分の眼に何も入らなかつたことであつた。まさかオンバコやスギ菜を取つて食はせる訳にもゆかず、せめてスカンポか茅花つばなでも無いかと思つても見当らず、茗荷みやうがぐらゐは有りさうなものと思つてもそれも無し、山椒さんしよでも有つたらの芽だけでも宜いがと、くるしみながら四方あたりを見廻しても何も無かつた。(同442-443頁)
 それでも四辺を見て歩くと、やがて百姓家の背戸のかげに──
 黄色い四べんの花の咲いてゐる、毛の生へた茎から、薄い軟らかげな裏の白い、桑のやうな形にれこみの大きい葉の出てゐるものがあつた。何といふものか知らないが、菜のたぐひの花を着けてゐるから其類のものだらうと、別に食べる気でも食べさせる気でも無かつたが、真鍮刀で其一茎を切つて手にして一行のところへ戻つて来ると、鼠股引は目敏くも、其れは何です、と問うた。(同443頁)
 語り手は何だかわからぬままに、自分が食べて見せれば良いような気になって、口のほとりへ持って行った。途端に東坡巾先生が素早くそれを彼の手から打ち落とし、「んでもない、そんなものを口にして成るものですか」と制止した。
 先生のげんによると、それはタムシぐさと云つて、其葉や茎から出る汁を塗れば疥癬ひぜんの虫さへ死んで了ふといふ毒草ださうで、食べるどころのものでは無い危いものだといふことであつて、自分も全く驚いてしまつた。斯様こん長閑気のんきな仙人じみた閑遊の間にも、危険は伏在ふくざいしてゐるものかと、今更ながら呆れざるを得なかつた。
 ペンペン草の返礼にあれをべさせられては、と土耳古帽氏も恐れ入つた。(同443-444頁)
 語り手は恥じ入ったが、人々は笑いに流して、なおいろいろのものをきつした。
 この人たちはこういう遊びを何度もしたようで、「其後のちの或日にもまた自分が有毒のものを採つて叱られたことを記憶してゐる」という。
 河豚の毒も怖いが、植物性の毒も恐ろしい。こうなると酔狂も命懸けだ。

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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)