岡崎 武志

第17回 この装幀造本だからこその読書

 いま目の前にあるのは、丸岡明『港の風景』(三月書房)。昭和43年5月15日刊。
 丸岡の著作に親しんだ記憶はとくにない。『静かな影絵』を買ったが、読まずに処分してしまった。そういう本、たくさんあるのだ。
 少し調べると丸岡明(1907~68)は東京生まれで、暁星中学から慶応大学仏文科を出て作家となった。デビューは「三田文学」。ベストセラーを出すとか、大きな賞を取るなど目立った活動があったわけではないと思う。集英社の日本文学全集に『北原武夫・丸岡明』の巻がある。能の解説や編集に多数の仕事を残す。能楽書林の社主・丸岡丈二は弟。
 著者に何か強く惹かれたわけでもないのに、この本を買ったのは三月書房の随筆シリーズだったからである。文庫よりやや幅広の矩形サイズで、ハードカバー、堅牢な函入りのスタイルで、これまで100冊以上を出している。出版物はこのシリーズのみ。雑誌もほかの書籍も出さず、映画を作ったり、不動産に手を出したりしない。きわだってユニークな出版社だ。
 言えることは、このシリーズで本を出すことが、ベテランであっても書き手にとって憧れであること。本を出す人なら、誰もが少しは思っているはず。あの函入りの小さな本で、随筆集を編みたいと。
 私は何冊ぐらい持っているのか。散逸して数えることはできないが、少なくとも10冊は所持していると思う。いや、もっとあるか。『港の風景』巻末に、昭和43年時点での同シリーズの刊行書目が挙げられている。最初の13冊だけでも挙げておくか。
 福原麟太郎『変奏曲』、内田清之助『鳥たち』、岡本文弥『芸渡世』、網野菊『冬の花』、福原麟太郎『諸国の旅』、戸板康二『ハンカチの鼠』、巌谷いわや大四たいし『おにやらい』、花柳章太郎『わたしのたんす』、佐多稲子『女茶わん』、岡本文弥『ひそひそばなし』、花柳章太郎『役者馬鹿』、奥野信太郎『おもちゃの風景』、円地文子『旅よそい』
 福原や奥野は学者、ただし随筆の名手。戸板、花柳、岡本は演劇や芸能の分野。網野、佐多、円地は派手なところはないが、着実に我が道を行き、本物の読者をつかんでいる。つまり、強い好みが出ている。その「好み」とは、三月書房社長の吉川志都子の「好み」だろう。このシリーズの「あとがき」を読めば、ほとんどの著者が「吉川志都子」の名前を挙げ、感謝の挨拶をしている。異例のことだ。丸岡もやはり「小型本は二冊目だが、どんな本になるのか愉しみである。装幀その他に、あまり口出しをせず、吉川志都子さんの思うままにして貰おうと思う」と書いている。社主への全面的な信頼が感じられる文章だ。
 江藤淳は『犬と私』の「あとがき」に、戸板康二の『ハンカチの鼠』について、「こんな本が出せたらいいだろうなと羨しく思っているうちに、意外に早くその夢が実現」したと書いている。そして、江藤が吉川と縁続きだったことも……。
 じつは三月書房は、吉川の一人出版社であった。「三月書房」と「吉川志都子」でネット検索をかけたが、あまりくわしいことはわからない。1961年に最初の本である福原麟太郎『変奏曲』を現在も続くスタイルで出した。『港の風景』はそれから7年後の刊行物だが、奥付住所は「東京都調布市国領町六―七-六」。おそらくだが、これは吉川の自宅住所ではないか。地図と照らし合せたが、当該住所は住宅街のなか。この単一の出版物のみで生活できるとも思えず、ほかに仕事を持ちながら出版業をしていたと推察される。
 つまり三月書房イコール吉川志都子だった。どういう人だったか、もっと知りたく思うが、今は手掛かりがない。
丸岡明『港の風景』を自装する
 吉川は自分のこと、出版社のことを語ること少なかった人のようで、精査したわけではないが、ネット検索では詳細が分からないのだ。大岡昇平『スコットランドの鷗』(1975)の「あとがき」に少し手掛かりあり。
「三月書房主吉川志都子さんとは、十年前私の叔母蔦枝が死んだ時、遺稿集の出版についてお世話になってからのおつきあいである。吉川さんが叔母が教えていた日本女子大学の出身だった御縁からだが、その御縁で、定評ある三月書房随筆シリーズに加えていただけたのは光栄である」
 驚いたことに大岡にとってこれが「はじめての随筆集」だという。続く文面に「吉川さんは出版社主であると共に、主婦でもあって、家庭的にも気を配って下さる」とあって、出版業は主婦業との兼業だったようだ。それで出版社の住所(調布市国領町)がふつうの住宅街の中にあった理由も判明した。やはり吉川の自宅だったのだ。
 現在は神田錦町に社屋を移し、代表は渡邊徳子。吉川から引き継いだのであろう。出版物はこれ一本も同様。ホームページに「手のひらにのる小型愛蔵本」とあるが、本当にその通りの本だ。

牧野伊佐夫さん個展のチラシを活用

 丸岡明『港の風景』についても触れておかねばならない。私が買ったのは古本屋。函なしの裸本で、だから安かった。100円。状態にもよるが、古いものはだいたい500~1000円ぐらい。木山きやま捷平しょうへい『角帯兵児帯』は人気の書目でもう少しするか。
 裸本を買った時はよくするように、自分でカバーを巻いて、背にはタイトルと著者名を入れた。こうするとこで愛着がわく。
 やはり「あとがき」に吉川志都子の名が挙がり、「この随筆集は、聖ロカ病院の339号室のベッドの上で編んだ」とあるが、丸岡の没年はこの本の出た1968年だからそのまま身罷ったのかもしれない。
 全部で3章に分かれる。1章は自伝的回想。2章は豊富な海外渡航経験について。3章は知り合った文学者たちの横顔を伝える文章。
 文壇での交遊のエピソードが楽しく、拾っておこう。
 フランスから芸術騎士勲章を授与された話(「騎士勲章」)。丸岡にとって賞に値するものはこれが初めてだった。フランス大使館で授与式が行われ、友人たちからも祝福を受けた。うれしい半面、友人たちに「無用な配慮」をさせていることが心苦しい。そんな中……。
 井伏鱒二は上等なハヤざおを作らせて祝ってくれた。有楽町のガード下の飲み屋の監督女史は、
「うちに来るお客さんに勲章をくれるなんて、フランスもイカスはね」
 と言った。この二つが、一番ありがたかった。
 三月書房随筆シリーズは、著者が方々の媒体に書いた文章を集めて1冊にするのだが、小ぶりの函入り本はこうした小粋な話題がよく似合う。知人や縁者に贈呈するのにもうってつけである。話の宝石箱といった趣で、投げ売りまがいが横行する騒々しい出版界にあって、その存在はひときわ光っている。
(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。