第21回 『山びこ学校』その2
前回に引き続き『山びこ学校』の話を。「ふくらむ」というより「はみだす」感じだが、今一度、現在では「作文」と言い表す「綴方」という用語についてもう少し。「綴方」がいつ「作文」に改まったか、その点について調査する気はない。ただ、1950年代に大阪で作文のうまい兄妹がいて、コンクールに入賞するなどして作品は単行本となり、映画化もされた。それが野上丹治・洋子・房雄『つづり方兄妹』である。写真は理論社の再刊で1973年5刷版。長くなると『山びこ学校』から遠ざかるので、早く切り上げるが、私は3兄妹の長男・丹治さんに会っている。
某紙に数年間、大阪についての記事を依頼されて年に1度書いたことがあり、そのうちの一つが『つづり方兄妹』だった。映画を見て、その風景から信州の山奥かと思ったら、私が生まれ育った枚方市の話であった。そんな驚きを熱っぽく書いたところ、新聞社を通じて、丹治さんから連絡をもらった。お礼を兼ねて、ぜひ1度お会いしたいということになり、東京の指定されたホテルでお目にかかったのだ。もう20年近く前の話か。
この作文の上手い兄妹を指導したのが、当時香里小学校の教員だった松原春海先生で、のち親しくなる漫画家の故・うらたじゅんさんが、松原先生の教え子だったなどと、芋づる式に機縁がつながっていったのである。
しかし、それはまた別の話。「綴方」に戻れば、落語家の4代目柳亭痴楽(1921~93)の当たりネタに「痴楽綴方狂室」があった。「破壊された顔の所有者」が高座に上がるとすぐ口にするフレーズで、七五調によるリズミカルな新作(詩に近い)が人気となるのが1960年代か。『つづり方兄妹』が1970年代まで流通していたことを思えば、教育現場ではすでに「作文」を使っていたが、一般の中に「綴方」という用語が生きていた気がする。現在の10代、20代には通用しないだろう。
「おらだの組はできる。」
『山びこ学校』を代表するような作品、江口江一の「母の死とその後」は、70年以上を経て読んでも感動的だ。父、母と順に亡くなり、貧しい一家の働き頭となる江一は学校へ行けなくなる。そのことを作文に書いた。それは江口家の実情と、江一の仕事の計画表だった。これを読んだ無着成恭先生は、学級の代表格である男子4人、藤三郎、惣重、俊一、勉に見せた。「作者紹介」によれば、佐藤藤三郎は「一九三五年十月二十六日生。生れる頃、いちばん大きい姉を和歌山まで働きに出し、肺病で亡くさねばならなかった家に生れた。ひたいにしわをよせてじりじりと相手を説き伏せねば止まない眼は、しっかり見開いている」。このクラスで、山元中学校を卒業する時、代表として答辞を読んだのも藤三郎だ。
無着は子どもたちに、江一の作文を読ませて、こうしろああしろと命じることはない。あくまで仲間である子どもたちに考えさせるのだ。以下、江一の作文から。
「藤三郎さんはだまって見ていました。見終って顔を上げたとき、先生が、『なんとかならんのか。』といいました。藤三郎さんはちょっと考えるようにしてだまっていたが、『できる。おらだの組はできる。江一もみんなと同じ学校に来ていて仕事がおくれないようになんかなんぼでもできる。なあ、みんな。』
と俊一さんたちの方を見ました。みんなうなずきました。僕はうれしくってなみだが落ちるようになったのでしたが、やっとがまんしました」
(注・原文は数カ所、方言をかっこ付きの現代語で併記しているが、意味は十分伝わるので省いた)
これは映画でも正確になぞられたシーンで感動的だ。無着の筆であろう「作者紹介」を読めば、山元村の子どもたちは多少の差はあっても、みな食うのにぎりぎりの貧困生活を経験していた。江一の問題を、全身から浴びるように理解できた。そして助けたのだ。
クラスの仲間が土曜日にみな江一の家に集まり、「バイタ(枝)はこび」「葉煙草のし」を手分けして手伝った。それは「一人では何日かかっても終りそうになかった」仕事量であった。雪にそなえ「雪がこい」作りもしてくれた。江一は学校へ通えるようになるのだ。
江一は続けてこう書く。
「明日はお母さんの三十五日です。お母さんにこのことを報告します。そして、お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています」
言っておくが、これは10代初めの少年による文章だ。生活記録として始められた「綴方(作文)」教育だったが、貧しさの中で、真摯に生きる姿勢を少年の眼が見つけ出している。戦後混乱期における教育実践の輝かしい成果であった。
ところが、「無着成恭と教え子たちの四十年」という副題を持つ、佐野眞一のノンフィクション『遠い「山びこ」』(新潮文庫)を読むと、その後は苦い結末が待つ。『山びこ学校』が書籍化され、映画ともなり、一躍有名になると歪みが生じる。無着がスターとなり、子どもたちの作文が多くの眼にさらされる。そんな中で、父親から怒鳴られたという生徒が出てくる。貧乏が世間に知れ渡り「孫末代までの恥さらしだ」と言うのだ。まあ、気持ちはわかる。ただ、無着に批判の矛先が向けられ様々な軋轢を生み孤立していく。そしてついに、村から追放されてしまうのだった。
『遠い「山びこ」』は学校を出た教え子たちのその後を取材している。「できる。おらだの組はできる」とリーダーシップを取った藤三郎は村に残ったが、マスコミの取材者が次々と訪れ、対応に追われた。「日々生活していかなければならない」のに「外来者たちはそんな生活には一切関心を示さず、ただただ『山びこ学校』時代の思い出話を根掘り葉掘り聞くことのみに神経をかたむけた」。マスコミ側にいる私が、当時、取材を命ぜられたら、やはり同じ轍を踏んだろう。残念ながら、そういうものなのだ。
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
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