岡崎 武志

第22回 『パーフェクトデイズ』

 ヴィム・ヴェンダース久々の監督長編作品『パーフェクトデイズ』(2023)を見て深い感銘を受けた。ここにそのことを書くのは、主人公の平山(役所広司)が「本を読む人」だからである。
 何人かの知人から、「岡崎さん、ぜったい見た方がいいですよ。古本屋が出てきますよ」と言われていたのだ。じつは、映画館で映画を見る習慣が失われていて、劇場へ足を運ぶのがひどくおっくうになっていた。1月に吉祥寺「アップリンク」でアキ・カウリスマキの新作『枯れ葉』(2023)を見て、こちらも非常にいい作品だったため、「おっくう」の足かせが取れた。
 同じ吉祥寺の「オデヲン」で長期上映されていることを知り、2月中旬、心も軽く出かけていった。完全予約制となっていて、どうせ昼飯を食べて古本屋を数軒めぐるつもりだったので、1時間半ほど早くでかけて窓口でチケットを買う。シニアだから、普通2000円のところを1200円で見られる。年取ることはありがたいことだ。座席表から予約席を取れるのだが、もう7~8割方が埋まっていた。人気のある作品だと分かる。
 そうしていよいよ、スクリーンに向かい約2時間の映画を楽しんだ。いい映画を見た後の余韻がしばらく続いた。前の月に見た『枯れ葉』とともに、5つ星で評価するなら星5つだ。まだの方は、見た方がよいですよ。
 人気作品だと分かるのは、帰りにチラシをもらおうと思ったら、『パーフェクトデイズ』だけ、まったく見当たらなかったからだ。仕方ない。見終わって喫茶店ですぐに取ったメモと、ネット検索で知った情報をまぜあわせて書く。
 ヴェンダースが登場したのは1970年代だが、文化的カリスマとなったのは80年代か。『パリ、テキサス』が高い評価を受け、『東京画』、『ベルリン・天使の詩』で頂点を迎える。90年に『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を撮った後も作品を発表しているが、私の意識には30年近い空白があった。どうしちゃったんだろう、ヴェンダースはと思っていた。じつは『枯れ葉』のカウリスマキも2017年に一度、引退宣言をしている。2023年は巨匠復活の年となった。
『東京画』は小津安二郎へのオマージュであり、日本に滞在し、1980年代半ばの東京が外国人の眼を通して描かれていた。『パーフェクトデイズ』はより徹底し、使われるのはすべて日本の俳優だし、あからさまな「外国人の眼を通して」という視点は排除され、日本の映画になっている。前情報なしに見れば日本の監督と思うはず。
 主人公は役所広司演じる平山(小津映画にたびたび使われる役名)という独身、一人住まいの初老で、都の公共トイレ清掃の仕事をしている。本作の特異は、そのトイレ掃除という仕事をマニュアルのごとく、一部始終を繰り返し撮影していることだ。そのトイレも、すべて個性的な建物で美しい外観を持つ。これは渋谷区のプロジェクトによるものらしく、安藤忠雄、伊東豊雄、隈研吾など名だたる建築家が手掛けた。用便しなくても、わざわざ訪ねたくなる素敵なトイレなのだ。
本を読む男
 目覚まし時計をセットせず、早朝、近くの神社で道を清掃する音で目覚める平山は、布団を畳み、歯を磨き、支度をして家を出る。このルーティンがくり返し映る。玄関を出る際、空を見上げ、空模様にかかわりなく微笑む。目の前の自販機で缶コーヒーを買い、これが朝飯。バンに乗り込み、首都高を走り、その日のシフトであるトイレを回る。仕事ぶりは丁寧で、相棒となる清掃員(柄本時生)は「どうせ、すぐ汚れちゃうんだから」と適当にこなすところを、道具まで自作して隅々まで入念に仕上げるのが平山の流儀だ。
 昼はいつも決まって近くの神社のベンチに腰掛け、サンドイッチと牛乳で昼飯を済ます。フィルムカメラを携帯し、木漏れ日をモノクロで撮影する。木の根元から生えた芽を丁寧に掘り起こし、陶器で栽培している。あと、車の中では60~70年代のロックやポップスをカセットテープで聴いている。
 仕事を終えると家に戻り、自転車で銭湯に行き素早く体を洗い、その足で浅草へ。地下道に昔からある焼きそばが名物の居酒屋で、チューハイを1杯だけ飲む。どうも夕食はこれだけらしく、極端な小食である。独身者が食べそうな、立ち食いそば、牛丼、ラーメンも出てこない(腹が減って、家でカップラーメンを食べるシーンあり)。
 とにかく平山は「しない」ことで生活のスタイルを作っているようだ。新聞を取らず、家でテレビも見ない。仕事用に携帯電話は持つが人と会話はしない。映画も見ないし、釣りやスポーツも関心がない。市井の隠者に近いような暮らしだ。唯一積極的にするのが「読書」なのだ。就寝前の少しの時間、布団に腹ばいとなり必ず本を読む。
 本棚は一つのようだが、文庫本がびっしり詰まっている。映画に登場するのは、フォークナー『野生の棕櫚しゅろ』(新潮文庫)、パトリシア・ハイスミス『11の物語』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、幸田文『木』(新潮文庫)で、映画を見た人はみな読みたくなるらしく、アマゾンなどではすでに高騰していると聞いた。読書の趣味もじつにいい。ふつうなら、藤沢周平など時代小説を読みそうなところだが、おそらく学生時代に文学に耽溺たんできした体験を持つのだと推察される。『野生の棕櫚』は、新潮文庫が一時期、リバイバル復刊した際の特別カバーがつけられていて、現在は入手困難。
 平山は浅草の古本屋(「地球堂」でロケ)で、いつも1冊ずつ買い、女性店主が語りかける。「幸田文はもっと評価されなければいけない」なんて言う。このシーンもいい。
 この就寝前、儀式のように行われる読書の時間がいい。一日の重労働を終え、ようやく得たパーソナルな至福の時。たしかに、この「本を読む」静かなエネルギーは人に伝染して、主人公が手にする本がほしくなる。こんなに本をよく読む映画の主人公を見るのは、緒方明監督、田中裕子主演『いつか読書する日』(2005)以来かもしれない。電車の中や、喫茶店などで読書する姿が消滅しつつある今だからこそ、平山のような存在がいとおしく思えてくる。
 そんな平山にも、ささやかだがいいことがある。平山はあとでそれを思い出し笑いしたりする。口にする言葉は少ないが、心の中にはいっぱい言葉を持っている気がするのだ。


『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。