岡崎 武志

第23回 『映画の木洩れ日』

 じつは、前回書いたヴェンダースの映画『パーフェクトデイズ』の感動をまだ引きずっている。あわてて、禁じ手としているアマゾンに『SWITCH』という雑誌の特集号を注文するまでの熱の入れようだ(雑誌はまだ届かないが)。
 同じ映画にハマった60代3人組で、映画のロケ地をめぐる散歩もした。しかし、それはまた別の話。あの映画で、トイレ清掃員の平山が、仕事の合間に趣味でフィルム写真を撮る場面がある。モノクロで、空を見上げて木漏れ日を撮影するのだ。この木漏れ日が、一人暮らしで自足する初老の男の「幸福」を象徴しているように見える。エンドロールで「木漏れ日」について、画面に文章が映し出されることでもわかるだろう。
 活字人間としては、いい映画を見た後は、映画の本を読みたくなる。学生の頃から映画が好きで、映画の本もずいぶん集めたが、ある時、ほとんどすべてを売り払ってしまった。それでも手を切ったわけではなく、あれやこれや買うようになって、現在はまた、かなりの量になっているはずだ。
 今回、読み直したのが安西水丸『シネマ・ストリート』と、川本三郎『映画の木洩れ日』で、どちらもキネマ旬報社刊。ここでは後者を取り上げる。「木洩れ日」というキーワードは『パーフェクトデイズ』と結びつく。「書名の『映画の木洩れ日』は、映画の本の書名としては大人しいと思うが、老いの人間には合っていると思う。年を取ると派手なものは不得手になってゆく」(「あとがき」)に書くが、この点でも平山と相通じる。
「老いの人間」と書かれていてギョッとするが、川本は1944年生まれで今年80歳。私が若き日より、もっとも敬愛する書き手として、いつも若々しい憧れの先輩として兄貴分のように思っていたが、「80歳」と突きつけられると神妙な面持ちとなる。現役の作家を追い続けていると、書き手が年を取るとともに読み手もまた年齢を積み重ねる。そのことを嘆いているわけではなく、空を見上げて「木洩れ日」を見る心境だと思えば、悪くない。

『映画の木洩れ日』は、老舗の映画雑誌『キネマ旬報』に長期連載中の「映画を見ればわかること」を中心に、映画についての文章を集めて単行本化した6冊目にあたる。本書は2017年から22年までの連載を収録。和洋の新作映画をいち早く取り上げるとともに、作品に共通するテーマやディテールを、過去の作品からも掘り起こす。映画のみならず、文学作品や音楽、歴史、鉄道、ファッションなども対象となるため、とにかく大変な知識量だ。
 川本はアナログ人間を自称し、パソコンを使わずいまだに手書き原稿で、スマホも携帯しない。現在ならネット検索で簡単にわかるようなことも、すべて経験と知識から導き出す。つまり、すべてが身についた情報なのだ。だから細かな指摘にも血が通っている。
 全ページがそうだから、これはどこでもいいのだが、たとえばジョン・マッデン監督『オペレーション・ミンスミート-ナチを欺いた死体-』についての文章。第二次世界大戦中にイギリスの諜報部が仕掛けた謀略作戦を事実に基づき描く。冒頭に引かれるのが丸谷才一の句。
「買って来いスパイ小説風邪薬」
 ユーモラスな句で、まず「スパイ小説」を印象づける。イギリス諜報部員は実在の人物で、なかにイアン・フレミングがいる。「007」シリーズのあの作家だ。そして「イギリスのスパイ小説の書き手には実際に諜報部員だった者が多い」として、サマセット・モーム、ジョン・バカン、グレアム・グリーン、イアン・フレミング、ジョン・ル・カレの名を挙げる。繰り返しになるが、ネットでなら「もと諜報部員だった作家」と検索すれば簡単に得られる知識でも、著者は自分の脳内の引き出しから探し出すのだ。
 続けて「バカンといえば」と文章を引き継ぎ、映画の中で諜報部員が子どもに読んで聞かせるのがバカンの『三十九階段』であり、ヒッチコックが映画化し、リメイク版があるとも付け加えている。いったい、どんな頭の中身なのか。「ええと、あのう、ほらナントカという映画に出てきた、ヨッパライで髭を生やした小柄の役者って誰だっけ?」なんて、しょっちゅう軽度な記憶喪失を繰り返す私とは大違い。
 しかし、ここに登場する主に2017年から22年公開の新作映画を、私はほとんど見ていない。10年ほど前までは飯田橋「ギンレイホール」という2番館で、半年とか1年遅れぐらいにはなるが、ずっと新作をチェックしていた。閉館でその習慣を失って、BS、CSのテレビ放送での視聴に頼るようになってしまった。旧作は別にして、ここで扱われた時代の作品で私が見たのは『ダンケルク』『異端の鳥』『グリーンブック』『ノマドランド』『ドライブ・マイ・カー』『すばらしき世界』『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』『マイ・ブックショップ』ぐらいか。けっこう見てるじゃないですか、と言われそうだが、いやいや500ページ近い本書で取り上げられたうちの、ほんの少しだと読めば納得するはず。
 それにしても川本の文章はいい。先輩の映画評論家・佐藤忠男について川本は「佐藤さんの文章は平明で分かりやすい。すぐれた文章とは、誰もが使っている普通の言葉で、誰もが言わなかったことを言うことだが、佐藤忠男さんの文章は、そのお手本だった。/映画をスクリーンのなかだけにとじこめて窮屈に語るのではなく、時代や社会との関わりで語ってゆく」という評言が、そのまま川本に当てはまることに引き写していて驚いた。
 それに心が優しく温かい。主人公や脇役が背負った運命の厳しさに同情し、ときに涙する。小さなセリフ、小さな仕草も見逃さず、映画の大きなテーマと同等に扱う。弱き者、差別された者、虐げられた者、社会的マイノリティーに注ぐ視線に、川本の映画評論の核があるようだ。
 未見の作品は、川本の紹介で無性に見たくなることもしばしば。「アメリカ映画にも、こんな静かで穏やかな作品があったか」と書き出される、ジム・ジャームッシュ監督の2016年公開作『パターソン』は、紹介文だけで激しく心を動かされた。好きな映画監督なのに、なぜ見逃したのだろう。あわてて公開中の映画館を探したが見つからず。出合える日を楽しみに待つこととしよう。

(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。