岡崎 武志

第24回 安西水丸が手に入らない

 あんなに、普通によく見かけた本(作家)なのに、ある時気づいたら一斉に古本屋の棚から消えていた。古本屋めぐりを年中していると、ときどきそういうことが起こる。何か大きな理由があったわけではない(と思う)。ところが、本当に地を掃ったように、消滅してしまうのである。
 ここ数カ月のことで言えば、安西水丸がそうだった。ゼロ、ということではない。現在、普通に書店で流通している書目もあり、それは丹念に探せば見つかるだろう。ただ、習性のように古本屋に通う私の「眼」を信用していただきたいが、本当に「ない」のだ。そして、「ない」となると欲しくなる。読みたくなる。
 いつでも手に入る。いつでも読める。そんな保険がかかった品ではなく、欠品に渇望する。ないとわかると無性に読みたくなる。
 誰でも、そういう気持ち、あるでしょう?
 念のため、いくつかのネット情報を検索してみたら、やっぱりそこそこの高値がついているようだ。懇意にする古本屋の店主にもリサーチしてみたが、「安西水丸さんは人気で、入るとすぐ売れますね」とのことだった。この店にも3冊はあるはずだと言うので、チェックしてみたら2冊しかなく、2000円と3000円で売られていた。いずれも定価より高い。私は気づくのが遅かった。今から集めるとなると大変だ。
 たとえば、村上春樹とのコンビによる著作でいえば、段ボールのトンネル函の『夜のくもざる』、『象工場のハッピーエンド』、『ランゲルハンス島の午後』、『日出る国の工場』などはブックオフなどでもひと頃よく見かけたが、今となっては稀少本と化している。文庫版さえ見当たらないありさま。たくさん売れたはずなのだが。大勢いる春樹ファンが、そこで安西水丸の魅力を知った、ということもあるだろう。
 まず簡単な履歴を。安西水丸は本名渡辺昇、1942年東京生まれながら、病弱の母と幼少期を南房総の海辺の町・千倉ちくらで送った。千倉の話は、エッセイやマンガにもよく出てきます。日大芸術学部を卒業し、電通、平凡社などを経て独立。ニューヨークのデザイン事務所に2年間、勤めたこともある。本職はイラストレーターだが、その職域は幅広く、マンガ、エッセイ、小説、絵本など著書多数。先述のように『中国行きのスロウ・ボート』を始め、村上春樹とのコンビによる仕事も有名。広告やポスターも多く手掛ける。当代売れっ子の一人だった。2014年3月19日に71歳で急逝。だから今年は没後10年となる。
 気まぐれに夜中、本棚を徘徊していて、安西の『青インクの東京地図』(講談社文庫)を取り出し、あまりに面白くて再読ながら一気に読み切った。挿入されたイラストも含め、やっぱりはいいなあ、と再燃したのが、今回の「水丸を探せ」のきっかけだった。

 すぐさま、目につく水丸本をわが蔵書から集めてきたが、写真図版に挙げたほか数冊にすぎない。いや、こんなものではないはず。20冊以上はあるはずなのだ。とくに没後刊行された『イラストレーター 安西水丸』(クレヴィス)の発掘がうれしかった。「持ってるはずだがなあ、どこへ行ってしまったんだろう」と数日、あちこち探索したら、リビングの大型本を並べた本棚から発見した。本棚の前には、また本が積まれて隠れてしまったのだった。
 安西水丸の代表的な仕事をイラスト中心に、各ジャンル網羅したうれしい本で、この1冊が安西水丸について考えるベース基地となる。
青インクの東京地図
 東京の町エッセイ集『青インクの東京地図』は赤坂、巣鴨、浅草、銀座、上野など東京の中心から、戸越銀座、府中、町屋、八王子と周辺の町へも足を伸ばして街歩きをしている。少年の日のこと、友人との想い出、女の人との淡い交情などが町の記憶とともに綴られ、これは独自のスタイルと言っていいだろう。
 文章もいいなあ。どこを引いてもいいが、たとえば新橋・烏森を扱った「木芽おこしの雨」。著者が大学1年、叔母が四谷荒木町で三味線を教えていて、そこへ通う宇木田直江という女性が登場する。父親を早くに亡くし、女ばかりの家に育った安西水丸は、女性に対する観応が鋭く素早く感受する。まあ、要するに色っぽい男性で、よくモテたとも聞く。
 東京オリンピックを挟み、その直江という女性の記憶と、町の変貌が色セロファンを重ねるように叙述されていく。古本屋の記述が頻出するのもうれしい。歴史的背景もきっちり押さえてあるのも意外だ。旧田村町(現・新橋)の町名由来について、田村右京太夫の上屋敷があった場所と説明され、ここは「忠臣蔵」の浅野内匠頭が切腹した場所でもあったと教えるのだ。安西水丸がかなりヘビィな歴史好きであることは、『ちいさな城下町』(文春文庫)でもわかる。
 そして私が強く惹かれるのはこんな個所。「木芽おこしの雨」の最後のところ。
「空の気まぐれにふりまわされた一日だった。気温があがったのか、それほど寒さは感じなかった。駅前広場にある蒸気機関車動輪三つのC11―292号が雨に濡れている。黒い車体に、ゆれうごくネオンの灯がうつっている。/この雨は木芽おこしの雨だと思った。それはちょっと淋しげな新橋の夜に似あっていた」
 何もかもを書きこまず、さっとペン先で素早く写し取ったような抒情的風景は、安西水丸の絵によく似ている。あんなへなへなした線で、よくあれだけ見事に風景を描けるものだと私はいつも感心する。和田誠の絵は、丁寧にやれば模写できるが、安西水丸は無理だ。平凡社時代の同僚であり、渡辺昇に安西水丸の名でマンガを描かせたのが嵐山光三郎。あのへなへなの線について、嵐山は、雪舟はうますぎて真似られないが、水丸は下手すぎて真似られないから水丸雪舟と名付けた。
 私は3月半ばに急きょ、安西水丸が絵を描く少年として過ごした千倉へ出かけてきた。白く続く砂浜の向こうに、白く打ち寄せる波と水平線があった。安西水丸の水平線だと思った。すっと一本線を引くだけで、千倉の海が現れる。私は持参したスケッチブックに、砂浜と波と水平線を描いてみたが、単に下手。まるでダメだ。あたりまえだが、安西水丸が達した線の境地にはほど遠い
『安西水丸の二本立て映画館』(朝日文庫)は、探索の日々に吉祥寺「よみた屋」の文庫棚で、前篇・後篇の二冊本のうち「前篇」だけを発見。「後篇」に値段が書かれていたはずなのだ。店主の澄田さんに声をかけ、一緒に探してもらったが、やはりない。「おかしいですねえ」と。私が「前篇だけでもほしいんです」と言うと300円で売ってくれた。
(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。