岡崎 武志

第25回 時代小説における老いの研究

 藤沢周平『三屋みつや清左衛門せいざえもん残日録』(文春文庫)を久しぶりに再読して、初めて読んだように堪能した。「残日録」とは、もと藩の用人を務めた三屋が、隠居後につけ始めた日記のことである。要職を離れて、自身の隠居と惣領又四郎の家督相続など一切の雑事を済ませ、残された、そう長くはない日々を無事に平穏に送るはずであった。
 しかし藩の政局争いや、市井のもめごとが三屋を落ち着かせない。藩政にかかわりない身分であることが、むしろ事を荒立てないとして親友の町奉行・佐伯熊太より、「貴公の力を借りたくてやって来た」と、もめごとの始末を持ち込まれるのだった。むろん、そうでなければ小説にならない。
 以前読んだのは、私がまだ50代だったか、三屋の年齢についてさほど気にして読んだ覚えがない。今回、数えで62歳と改めて知り、少し読み方が変わった。人生80年の現代とは違い、江戸期、50を過ぎればもう晩年ではなかったか。私がまさにその年齢を迎え、そのことを意識して読むと、『三屋清左衛門残日録』は痛快である反面、これは「老いの研究」だと考えるのだ。
 三屋は隠居してなお、藩より270石+50石の役料を授かり、上士なみの禄高であった。本来、藩に返すはずの国元の邸にもそのまま住み、息子夫婦に譲り、別に離れの隠居部屋の増築まで許された。かなり恵まれた環境だ。3年前に妻が死去し、一日のほとんどを隠居部屋で送る。後顧の憂いなく、安心と思いきや「その安堵のあとに強い寂寥せきりょう感」を覚えるのだった。夜ふけて離れに一人でいると「突然に腸をつかまれるようなさびしさ」に襲われた。
 この思い、藩を会社に置き換えれば、定年後に誰もが抱く、説明のつかない「寂寥感」をみごとに表している。藤沢周平を読むのは、圧倒的に男性のリタイア世代ではないか。そうなってみて初めて気づく「老い」の心境が、彼らを藤沢周平始め、老年を描いた時代小説に向かわせるのだろう。
 私が今回、再読してハッとしたのはこんな個所。三屋がかつて同じ道場に通った男とおよそ30年ぶりに再会する。妻を失ったのは同じだが、男は独り身で、タイトル通り「零落」していた。三屋は彼を見て「立っているのは、一人の老人だった。(中略)このおれももはや老人だろうが」と気づくのだ。
 同窓会などで、久しぶりに同年の友人たちと顔を合わせるとき、同じ思いを抱くことはあるだろう。「あいつよりは若い。あいつも老けたなあ」と自分をひいき目に見てもダメなのである。同年はまさに「鏡」で、映るのは自分の姿だ。
「若いころはさほどに気にもかけなかったことが、老境に入ると身も世もないほどに心を責めて来ることがある」(「高札場」)。
 三屋はそれらの「老い」をすべて受け入れ、やや巻き込まれ式ではあるが藩政の紛糾の渦中に飛び込んでいく。その勇気、剣の腕の自負、自分を律する爽やかな生き方に、しょぼくれるしかない高齢者が喝采を挙げる。これはもう、読まれて当然だと思う。
『剣客商売』のスーパーヒーロー
 もう一つ、隠居の老年剣士を主人公に据える長期人気シリーズだったのが、池波正太郎『剣客商売』だ。16冊で完結、ほかに「番外編」が2作書かれ、池波の『鬼平犯科帳』『藤枝梅安』とともに3大シリーズの一つ。いずれもテレビや映画など、複数回映像化された点も人気のほどをうかがわせる。
 私は『剣客商売』は未読だった。つい最近、外出する際に本を持って出るのを忘れ、電車の中で何か読めるものをとブックオフに立ち寄り文庫棚を物色。気楽に読めるものをと、新潮文庫版のシリーズ1作目『剣客商売』をあがなった。これが面白かったのである。腕のめっぽう立つ隠居老人という点では『三屋清左衛門』と同じだが、違う点も多い。三屋はほぼ単独でことに当たり、息子が修羅場に顔を出すことは少ないが、「剣客商売」秋山小兵衛こへえは、息子の大治郎だいじろうと連れ立って、しばしば命がけの勝負に出る。
 さらに大きく違うのは、「三屋」が妻の死後、女性との艶っぽい話から遠ざかっているのに対し、秋山には40も年下の「おはる」を妻とする。若い肉体に脂下がるシーンがしばしば登場し、壮健さが際立つのだ。色っぽい描写は読者サービスの面もあろう。驚くべきは、『剣客商売』の連載が「小説新潮」で始まった昭和47(1972)年、『仕掛人・藤枝梅安』も「小説現代」で連載開始し、「オール讀物」誌上では4年前より『鬼平犯科帳』の連載が継続中だった。池波は40代から後半期に入り、気力も筆力も充実していたことが分かる。
『剣客商売』第1作を読み終え、そのあと先に買ってあった12作目の『十番斬り』を入手しこれも読了。エンジンがかかった頃に、隣の市の市民会館で古本バザーが開かれた。市民の寄付による古本を、図書館友の会というボランティアの団体が管理し、年に1度、安価で販売される。何しろ文庫が30円、単行本が50円だからしびれる安さだ。コロナ禍で3年ほど中止になっていたのが、この春、久々に再開となり、心待ちにしていた私は勇んで乗り込んだ。
 なんと、ここに『剣客商売』シリーズが、番外編に欠けはあるものの、ほぼ揃って放出されていた。エンジンがかかったところへ、ガソリンを注いだようなもので、私は黄色い背の16冊ほどをむんずと引き上げわが物にした。料理ガイド編の「剣客商売 庖丁ごよみ」も含めて代金は480円。これをすでに買った2冊も合わせて、小さな箱にすぽりと収めた。当分、これで読み物には不自由しない。ちょっと贅沢な気分だ。
 ここでも「老い」の受け入れについて、学ぶこと多かった。
 25歳の息子・大治郎は貧しく小さな道場の主だが、父親の小兵衛を剣と生き方の師として崇めている。父から伝授されることは多く、大治郎は成長していくのだが、その教えが時々開陳される。たとえば「食」。入門者がなく、糧を得る術を知らない大治郎は朝も夕も麦飯と根深汁という粗食に甘んじている。この点、美食・飽食家の父とは違う。
「飯も汁の実も、嚙んで嚙んで、強いていえばほとんど唾液化するまでに嚙みつぶし、腹へおさめる大治郎の食事は非常に長くかかった」
 この食事法は、幼少の頃より父から仕付けられたものだという。または……。
「食事を終り、ゆっくりと一杯の白湯さゆをのみ終えた大治郎が、仰向けに、しずかに寝た。これも父から仕つけられたことなのである。約半刻はんとき(一時間)、そのまま目を閉じ、静臥せいがするのだ」
 大治郎は若者だが、私はこれをむしろ老いてからの健康法と受け取った。だから私はこのところ、ゆっくり食事を取り、食後に少し寝転ぶことを心掛けている。
 こんな小兵衛の感慨もある。
「年をとるとな、若いときのように手足はきかぬ。なれどそのかわり、世の中を見る眼がぴたり・・・と定まり、若いころのように思い迷うことがなくなる。これが年の功というやつで、若いころにはおもってもみなかった気楽さがあるものよ」
 この点は、正直言って、なかなかそうはいかないが、そうありたいと心掛けることはできる。よって『剣客商売』は老境を生きる教科書としても読めるのだ。現在、シリーズ第4作『天魔』まで読了。まだまだ、老後の楽しみが先に待っています。

(写真は全て筆者撮影)

『ドク・ホリディが暗誦するハムレット オカタケのお気軽ライフ』(春陽堂書店)岡崎武志・著
書評家・古本ライターの岡崎武志さん新作エッセイ! 古本屋めぐりや散歩、古い映画の鑑賞、ライターの仕事……さまざまな出来事を通じて感じた書評家・古本ライターのオカタケさんの日々がエッセイになりました。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。
Blog「はてなダイアリー」の「オカタケの日記」はほぼ毎日更新中。
2023年春、YouTubeチャンネル「岡崎武志OKATAKEの放課後の雑談チャンネル」開設。