スポーツ文化評論家 玉木正之

日大アメフト部の悪質タックル問題から角界の貴乃花親方引退まで、相次ぐスポーツ界の問題はスポーツに対する「無知」が原因!?
数多くのTV番組に出演し、多岐に渡って活躍するスポーツ評論家・玉木正之さんが、文化としてのスポーツの誕生と、その魅力を解き明かします。


テニスが紳士淑女のスポーツと呼ばれるようになったのは、
最近のこと?
 前回は、テニスはなぜテニスと呼ばれるのか? という疑問を、テニスの歴史とともに考えてみた。その答えは、前回のコラムを読んでいただいた方はおわかりだろうが、ひとことでいえば「いろいろな説があってわからない」というものだ。
 ボールを打ち合う遊びは、きわめて単純なうえに楽しいので、世界中のあらゆる時代に、あらゆる場所で行われていたのだろう。だからその起源についても、古代エジプト、古代ペルシャ、古代ギリシア、古代ローマ、中世アラブ……などなど、さまざまな説があるのだ。そして、それぞれルールが微妙に異なっている…… だったら現在のスポーツ競技としてのテニスと同じようなルールのテニスは、いつ頃、どこで生まれたのだろうか? その疑問に対して、ひとつの世界史的事実──高校の世界史の教科書にも載っているひとつの出来事──を思い出すことのできたひとは、かなり「優秀」といえる。いろんな事実を「知っている」こと、たとえばテレビのクイズ番組に出場して正解を答えることができることよりも、さまざまな知識を組み合わせることのできる人のほうが、よほど「優秀」と言えるはずですからね。それはさておき──
 世界史の教科書で、フランス革命の時代を説明している所に「テニスコートの誓い」という絵があったのを憶えている人がいるでしょう。1789年7月14日、民衆がバスティーユの牢獄を襲撃し、フランス革命勃発しますが、その少し前に、国王ルイ16世は三部会と呼ばれる議会を開催します。しかし、第一身分の聖職者、第二身分の貴族と、第三身分の農民や都市労働者の意見が対立。第三身分の人たちは、自分たちだけでの国民議会開催を決めたが、国王は議会を閉鎖。それに対して第三身分の議員たちが、ヴェルサイユ宮殿内にあったテニスコートに集まり、憲法の制定を誓い合ったのだった。そのときの様子を、のちにナポレオンのお抱え絵師となるジャック・ルイ・ダィヴッドが絵に描いた。その絵を世界史の教科書で見て、記憶している人も多いだろう。この絵には、現在のテニスを知っている我々の目で見て、チョット不思議なところがある。ひとつは、この「テニスコート」が室内であること。もちろん現在でも、テニスが室内で行われることは珍しくないが、この「室内テニスコート」には、左側の壁に、何やら家の軒先(のきさき)に突き出た「庇(ひさし)」のようなものがあるのだ。
 室内に「庇」とは不思議だが、じつは、これは召使い(サーヴァント)が第一球目をプレイヤーに「サーヴィス」するための「庇」なのだ。18世紀の終わり頃は、後にイギリスで「テニス」と呼ばれるようになったボールゲームが、フランスではまだ「ジュ・ド・ポーム(ポーム[手のひら]、ジュ[遊び])」と呼ばれていた時代である。その頃にフランスの貴族のあいだで大流行するようになった「ジュ・ド・ポーム」は、第1球目のボールを召使いがコートに投げ入れることによって、ゲームが始められた。が、召使いは、自分のご主人様には打ちやすいボールを投げ、ご主人様の相手には打ちにくいボールを投げ入れたりしていた。そのため室内コートの壁に「庇」を取り付け、召使い(サーヴァント)はボールをその「庇」よりも上に投げ、落ちてきたボール(サーヴィス・ボール)を打つところからゲームを始めるようになったのだ。
 やがてテニスの主流が、イギリスのやり方──ローンテニス(=芝のテニス)、つまり室内から室外の芝生の上で行われるようになる。すると第1球目のサーヴィスも、召使いではなく、プレイヤー自身が行うことになったのだが、「サーヴィス」という呼び名だけは残ったというわけだ。
 テニスでもうひとつ、誰もが不思議に思うのは、ポイントの数え方だ。15(フィフティーン)、30(サーティ)と、15ずつ増えた次が、なぜ45(フォーティファイヴ)ではなく40(フォーティ)なのか?
 これにも諸説があり、基本的には60進法で15を1単位としたが、30の次の45が言いにくいので略して40と呼んだのがはじまりといわれている。が、「掛け金説」というのもおもしろい。古いフランスのお金は、1リーブル=20スウ=240ドゥニエという単位を基本としていた。が、これまた諸説あるのだが、15スウのドゥニエ銅貨が発行され、1ポイント(1回の打ち合いに勝つ)で15スウの獲得。4ポイントで60スウ=3リーブルを獲得。それを1ゲームの勝者が得たというのだ。これでも15、30の次が40である謎は判然としない。40スウのドゥニエ新銅貨でも発行されていれば、15スウ、30スウの次に40スウ銅貨を手にしたということになり、“掛け金説”は完璧だ。が、そんな銅貨はなかったようだ。
 ただ、テニス(ジュ・ド・ポーム)とギャンブルは、かなり密接な関係があったらしい。最近『はじめてのルーヴル』(中野京子著/集英社)というルーヴル美術館に関する書籍を読んでいると、16~17世紀に活躍したイタリア人画家のカラヴァッジョ(彼は相当乱暴で喧嘩っ早い人物だったらしい)が、「悪友たちと賭けテニスに興じ」乱闘になった末、「気づけば、ひとり刺し殺していた」というエピソードも残っているようだ。
 ヴェルサイユ宮殿のテニスコートの「庇」が、召使い(サーヴァント)のご主人様に対する「えこひいき」禁止のためだったことを思うと、テニスが紳士淑女のスポーツと呼ばれるようになるのは、かなり最近になってからのことのようですね。1877年にウィンブルドン大会がイギリスで始まり、1881年には全米選手権も幕を開けた。そして、近代オリンピックが開幕したのが1896年。古代ギリシアのオリンポスの祭典(古代オリンピック)が、1000年以上続いた(BC776年からAD393年)のに対して、テニスやフットボールなど近代オリンピックのスポーツの歴史は、どれもまだ高々150年程度しかないのだ。


『今こそ「スポーツとは何か?」を考えてみよう!』(春陽堂書店) 玉木正之(著)
本のサイズ:四六判/並製
発行日:2020/2/28
ISBN:978-4-394-99001-7
価格:1,650 円(税込)

この記事を書いた人

玉木正之(たまき・まさゆき)
スポーツ&音楽評論家。1952年4月6日、京都市生まれ。東京大学教養学部中退。現在は、横浜桐蔭大学客員教授、静岡文化芸術大学客員教授、石巻専修大学客員教授、立教大学大学院非常勤講師、 立教大学非常勤講師、筑波大学非常勤講師を務める。
ミニコミ出版の編集者等を経てフリーの雑誌記者(小学館『GORO』)になる。その後、スポーツライター、音楽評論家、小説家、放送作家として活躍。雑誌『朝日ジャーナル』『オール讀物』『ナンバー』『サンデー毎日』『音楽の友』『レコード藝術』『CDジャーナル』等の雑誌や、朝日、毎日、産経、日経各紙で、連載コラム、小説、音楽評論、スポーツ・コラムを執筆。数多くのTV番組にも出演。ラジオではレギュラー・ディスクジョッキーも務める。著書多数。
http://www.tamakimasayuki.com/libro.htm
イラスト/SUMMER HOUSE
イラストレーター。書籍・広告等のイラストを中心に、現在は映像やアートディレクションを含め活動。
http://smmrhouse.com